国境の峠「クン・ラ」で祈りを捧げ、いよいよ標高6028mのイェメルンカンへ――

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キャンプ地からめざすのは、中国(チベット)との国境のクン・ラ、そして台形の山・イェメルンカン(6028m)。この地へと導いてくれた慧海、そして恩師たちに感謝の祈りを捧げながら、行程を進めていく。

 

9/27 クン・コーラキャンプ地(4815m)~クン・ラ(5411m)~BC(5325m)

キャンプ地での朝、起きると霜が降りていた。ここは周りの山が大きいので影になって冷えこんだようだ。7:20に出発すると、道は徐々に登っていく。やがてイェメルンカンが大きくなって、ルンチュンカンも同時に見えてくる。後方のネパール側を振り返ってみると、黒い山に隠れてチューレンヒマールが見えている。さらに、どんどん登って行くと、イェメルンカンの全貌が見えてきた。

高度を上げていくと、イェメルンカン(6028m)の全貌が見えてきた

最初、イェメルンカンへはクン・ラからダイレクトに登った方が近いのではないかと思っていたが、実際にはそうではなかった。思った以上に長いルートになっていて、やはり大西バラサーブが登ったルート、西側から登ろうと思った。

私にとって2度目のクン・ラ。前回は馬で登ったので全然高度感がなかったが、今回は歩きのみでたどり着いた。この辺りは標高が5500m近くもあるので歩くスピードが出ない。酸素は平地の2分の1の世界だ。まるで山のピークに登るような高さだが、ドルポでは峠なのだ。

私はいつもと同様、最後尾を歩いていたが、9:20ごろに追いついてメンバーと合流できた。追いついた場所で、ガイドのアガムさんが大きな石を持ってきてケルンを立てた。

そこからまだまだ登っていき、10:02、タルチョが掲げられている峠に着いた。ここがクン・ラだ。ちょっと離れたところには国境標識も見えた。2007年に初めて大西さんに連れてきてもらったときのことがフラッシュバックした。あの時、大西さんは私を一番先頭に行かせようとしてくれたが、私の馬が前に行ってくれず、結局、大西さんの背中を見てスタートして、いつの間にか大西さんはチベット人のように馬を扱い先に進んでいったのだ。

タルチョが掲げられている峠、クン・ラに到着。中国(チベット)との国境も目の前だ

今回は、一歩ずつ大地を踏みしめてきた。ジョムソンからここまで、自分の足だけで歩いてここまできたことに感激した。ネパール側を確認すると、少し雲がかかっていたが、ヒマラヤが見えた。でも、これは慧海師のいうダウラギリではない。この山肌はカンジェラルワ(6612m)だ。

少し雲がかかっていたが、雪をまとったヒマラヤを一望できた

慧海の日記では、ドルポの玄関口の峠、トゥジェ・ラ(峠)から見えたという山の名前も間違っていた。慧海は見えた山をすべてダウラギリとしているのではないかと思う。一般的にヒマラヤ=エベレストとするイメージのように、ドルポの山=ダウラギリというふうに・・・。

2004年に見つかった日記によって、慧海はヤクと一緒に峠を越えていると推定されている。私はここでもまた、祈りを捧げた。他界した吉永さんへ、大西さんへ、カタ(ネパールの祝福用のスカーフ)にメッセージを書いてくくりつけてきた(このときすでに水谷さんも他界されていたが、私はまだ知らなかった)。

2007年にクン・ラに到着した際は、馬で到着した

「タルチョと一緒になびいて天国へ届け!」

吉永さん、大西さん、水谷さんから学んだこと、情熱をいただいたことは計り知れない。本当にありがとうございましたと、心の底から伝えたいと思った。吉永さんからいただいた本の中には、手書きのメッセージが添えられていた、「Dolpoを愛してくれてありがとう」と。経験と知識は全然追いつかないけど、 情熱だけは受け継ぎますよ、応援してくださいねと伝えていると、大きなハゲワシが飛んできた。

恩師たちへの感謝をあらためて伝えたのだった

慧海ルートのネパール側の道はここ、クン・ラで終わり、チベットへと続く。慧海はここからチベットへと潜入するわけだが、この慧海の行動力に脱帽する。私は仏教の観点から慧海師の足跡を追うようになったわけではない。慧海師が私と同じリウマチの持病がありながら、その身体で100年以上も前にこんな壮大な旅をしたということに感銘を受け勇気をもらったからだ。

私は18歳でリウマチになり、将来に対して絶望していた。毎日が痛くて痛くてどうしようもない身体に希望を見いだせなかった。そんな私が旅に出て、旅の延長でヒマラヤに出会い、慧海さんの存在を知り、ここまで歩いてこられた。自分の単なるマイブームが、大西バラサーブ達とつながれたことで、本格的な慧海ルートを歩くことができた。慧海さんのおかげで人生が100倍楽しくなったと言い切れる。

クン・ラ(峠)からチベット側を見渡すと、慧海師のいう慧海池と仁広池が見える。「いつか必ず、この国境を越えて、カイラスまで行くぞ!」という思いを残して、慧海ルート・ネパール側の探索トレッキングを終了した。

国境の向こう、チベット側に思いを馳せる。慧海師のいう慧海池と仁広池が見えた

そして、国境でもう一つやりたいこと、それが大西さんが登った「あの山=イェルンカン」に登ることだ。山頂からはきっとチベット側が見えるはずだ。カイラスまでは見えないだろうけど、チベット高原が見えるはず。さらに慧海ルートの全貌を感じられるだろうという思いがあり、イェメルンカンBCとする予定の方向へと移動する。

一度南へ戻り、広々としたところに出ると西へと針路を取った。ガスっていたら非常にわかりにくいだろう地形だったが、快晴で国境ラインの山が大きく見渡せたおかげで、方向オンチの私でも方角がつかめた。すると、先に着いていた馬方がまた機嫌がわるい。聞くと、「もうこれ以上は行きたくない、馬の足場がわるすぎる」という。

私は無理を言うつもりはないし、ここが国境ラインの最終地点だと伝えた。すると、ガイドが気を効かせて、ポーターを連れて明日登る予定のイェメルンカンの偵察に行ってくれた。私は何も指示していないのに、さすが大西バラサーブの隊で西ネパールを歩いた人だと思った。

こうして私は、ジョムソンから数えて19日目(レストと停滞含む)に、国境峠のクン・ラに立つことができた。慧海師が、雪の中、ヤクとヤク使いと共に国境を無事に越えたのは1900年7月4日のことであり、その行程は22日目であった(レストと停滞含む)。

ちなみに、クン・ラに到着した日記にはこう記されている。

河口慧海日記

7月4日 この日犛牛着○○○越○○○○○○到○犛牛○○○○○○○○○○○○○と最早本日西藏土○○に入○○○○○○○○○○○○○○○○便を○○○○○ 午前9時半出立して北方の山中に急坂を上る。雪と踏み岩を渡りて、上ること一里半して、金沙の多く流るる雪間の渓流にて焼麦粉を食ひて、北方に雪中を上ること一里にしてネパールと西藏土との国境なる雪峯に上る。

※〇は黒塗りされている部分。「犛」の文字はヤクを指す

今回の行程。クン・コーラ(Krun Khola)からクン・ラ(Khung La)、そしてイェメルンカン(6028m)

 

9/28 BC(5325m)~イェメルンカン(6028m)~BC(5325m)

朝、5:50ごろ、テントから出ると空は紫色に染まり雲一つない快晴が期待できた。しかし段々と雲行きが怪しくなってきて、7:30ごろ、空一面雲に覆われた。そこでメンバーと「予備日もあるから、登頂は明日でもいいか」と相談したが、明日も天気がどうなるかわからないからコルまで行って決めることになった。

テントから出ると、雲一つない快晴だったが、雲行きは怪しい

コルにたどりついた時は、私は雲に流れを感じ、これはいけそうだと思った。相方の伴ちゃんにも聞いた、「どうする!? 行きたいよね、登りたい! 行こうよ!」と、すぐ決まった。

クーンブ地域などでの行動は朝が勝負で、昼をすぎたら雲が多くなり風もきつくなるが、ドルポは違う。昼から天気がよくなる場合があるのだ。その予想が的中し、雲がぬけてきた。徐々に遠くにヒマラヤの峰々が見えてくる。

いざイェメルンカン(6028m)へ。高度を上げていくとヒマラヤの峰が見えてくる

「あれは、ダウラギリだ! すごい~、ここから見えるんだ~」

と、心のなかで歓声をあげるものの、足元はグラグラのモレーンが続き登りにくく、足首がぐらつく。無心で登っていると、岩の間に足を突っ込みバランスが崩れる。それを、とっさにストックで支えようとする。

足元はわるく、落石も激しい。厳しい登りを強いられる

国境付近や、あまり人が入らない地域の道ではよくあることだが、リウマチの足にはきつい行程だ。2012年のドルポのときも、ムスタンとの県境、チベット国境付近の山々がそうだった。あのときは、雪があり、アイゼンでぐらつく岩の登り降りがあり、神経をすり減らしたものだ。それと比較すれば、今回はアイゼンを履いていないだけマシだ。一歩登れば二歩下がる、トラバースの道は崩れまくって、前後は間を開けて登らないと落石の嵐だった。

大西さんはスニーカーでも登れると言ったが、この落石を食らったら一発で終わりだ。私は何度か落石を目の前で見たことがあるが、それは一瞬の出来事で、何秒の差で当たっていただろうと思うとゾッとする。小さな落石は不意にいきなりくる。プロ野球の投手の速球みたいにビューンと早く、その音を聞くと同時に早く通りすぎるから、逃げる余裕なんてない。

逆に大きな落石は、大きさにビビってしまい足が止まる。どうしたらよいのかわからず大西バラサーブに「動くなー」と叫ばれたことを覚えている。その瞬間、とっさに近くにいたシェルパが私の手をグッと引き寄せて助けてくれた。

このときは、私より下方にいた馬に落石は直撃、馬は倒れた。あろうことが、その衝撃で荷物が吹っとび、そのまま谷の底までゴロンゴロンと落ちていったしまった。しかし、その後、ポーターたちは滑るように谷の底まで駆け降りていき、それらの荷物を担いで尾根まで登り返してきた。まさに超人的だ。

そんな想い出や恐怖と戦いながら、ようやく山頂に着くと360度すべてに展望が広がっていた。国境付近にはパチュンハム、ギャンゾンカン、そして、ネパール側の遠くには西ネパールのなだたる山々が望めた。ダウラギリ、チューレンヒマール、ツォ・カルポカン、カンテガ、カンジロバ・・・。ここからこんなにも見えるなんて思っていなかった。

イェメルンカン(6028m)の山頂からは、360度方向に展望が広がっていた!

カメラの望遠600mで、ブレないように息を止めてシャッターを切る。でもここは標高6000mだから、さすがにすぐ苦しくなる。そして、未踏峰ルンチュンカンの全貌も見えて、ルンチュン・ラを確認した。慧海師の越境峠のいくつかの候補にもなった峠だが、クン・ラより遠いし、ここよりもっとモレーンで足場がわるそうだ。ヤクが通るのは厳しそうだと思った。

望遠レンズでヒマラヤ方面の山々を撮る。この山はツァカルポカン(6556m)

カンジロバ(6883m)の勇姿もクッキリと確認できた

このピークを踏んだとき、「ここは大西さんの庭だなぁ~!」と、思った。山々の姿を記録しようと動画を撮っていたら、そこに大きなハゲワシが2羽飛んできた。あれ、まただ、クン・ラでも飛んできたのと同じように――。そのハゲワシがまるで大西さんたちが姿を変えて見守ってくれているように思え、感謝せずにはいられなかった。

ハゲワシが、まるで大西さんたちが姿を変えて見守ってくれているように舞っていた

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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