ドルポ最西北部の「ポ村」をめざして旅立ちの朝、ヤギの解体でエネルギーをチャージ

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ネパール国内の慧海ルートをたどり、ついにチベット(中国)との国境に立った稲葉さん。この遠征の最大の目的を達成した後は、時間の残す限り、ドルポ内を散策する。秋も深まる季節、紅葉で色づいた山中の地図にはルートの記載がされていないところを巡っていく。

 

9/30 ニサル~Yudo(4480m)

今回の行程の概略地図。この地図は新しいバージョンで、2016年当時は、ルートは掲載されていなかった

この遠征の最大の目的は「慧海ルート」をできるだけ忠実にたどり、慧海がチベットへと越境した峠であるクン・ラまで歩くことだった。それが無事に終了し、これからはドルポ内部を横断する旅を続けることとなった。ドルポ内部の横断の旅は事前に選択技として3つのルートを考えていた。

①最短ルート
②ドルポ最西北部のポ村や内部の村をできるだけ周遊し、ジョムソンまでの大横断
③慧海ルートを往復で戻る

私のリウマチの足の状況がどうなるのかによって、どのルートを選択するのか現地で決めようと思っていた。実は出発時の足の状況はリウマチが再発しており、歩くたびに痛みが襲う状況で、遠征についてはドクターストップがかかっていた。その理由は、3ヶ月分の薬を一度には出せないからだという。

リウマチは免疫異常の病気で、私の場合は関節が壊れていく。その痛みの程度は0から10まであり、日によって波がある。現在(2016年当時)の私の薬は、生物学的療法といって、月に一度、点滴を3時間ぐらい打っている。それは免疫抑制剤なので感染症になりやすい状況になる。そのため今回の遠征では私は薬を使わない手段を選び、自己判断で出発することにしていた。

過去に何度もヒマラヤトレッキングで調子がよくなったため、今回もそれを信じて出発したのだ。すべては自分の責任で、それなりの覚悟をしている。ただ、それは最近になって覚悟したことではない。リウマチは18歳で発症しているが、覚悟ができたのは24歳で旅に目覚めた時に決めたことだった。

出発前、医師には

「目先のことだけを考えるな、今無理したら10年後歩けなくなるぞ、年齢重ねたら誰でも歩けなくなっていくが、あなたは人より歩けなくなるのが早いんだ、もっと考えろ」

と言われていた。しかし、私は妥協してまで長生きしたいとは思っていない。人生短くてもいい、太く生きたい。だから歩けるうちに歩いておきたい、それがたとえ60歳になった時に歩けなくなっていたとしても、だ。歩くということを一度失った18歳のあの日から、普通に歩くということがどれだけ大事なことか痛感した。山をただ歩くだけで私は幸せなのだ。

そして、この時の状況は、身体がヒマラヤに完全順応していて、高度はもちろんのこと、山と一体化して歩けていた。痛みはゼロにはならないが、スタート地点より軽減していた。

さらに、ドルポの全土をできるだけ歩いてまわりたい、全力で歩きたい気持ちが一番に来ていた。パートナーの伴ちゃんにも、あらためて気持ちを訪ねた。返事は、「香ちゃん、ここに来るまではどうなるかわからんかったけど、いま、なんかいけそうだよね? どう?」と言ってくれて、私は「もちろん横断ルートに行きたい」と言った。

即決した。②の選択肢は、3つのうち一番長いルートである。伴ちゃんは、日本出発前も「どうなるかわからんぐらいが楽しいやん」と言ってくれていて、それがどれだけうれしかったことか――、ずっと感謝している。

横断ルートには、実は2つのパターンがあるのだが、伴ちゃんはルートのすべてを私の判断に完全に任せてくれていた。だから、細かい日程やルート説明は現地でガイドに確認しながら調整することになっていた。すると、ガイドからは「次の仕事を入れていて、カトマンズに戻らないといけない」と言う。

「えーーーーー!マジか」びっくりするけど、これは“ネパールあるある”だ。先のことを計算していない人が多く、最初に約束していた日程とかぶらせて予定を立てるのは普通なのだ。

というこで、当初の日数よりは少なくなってしまったが、一番長いルートを歩きたいということで、1日の歩く距離を長く調整しガイドを説得する。毎日早朝から歩き出し、日没ぎりぎりまで歩くと伝えて納得したようだった。

ところで、以前の記事でも知らせたとおり、時期的にネパール最大のお祭りである「ダサイン」が近づいていた。そのため、この日は手配していたヤギの解体が朝から行なわれた。ニサル駐在の警察の方(ネパールガンジー出身)が、とても親切で手伝ってくれた(というより中心になってやってくれた)。

ヤギの解体は、これまでに何度も見てきたが、方法は出身地によってかなり違いがある。ちなみに、今回の解体で活躍した警察官の出身地であるネパールガンジーはインド国境に近くの街で、夏はかなり暑い場所だ。西北ネパールの山岳地帯の主要都市へはカトマンズやポカラからは一気に飛べないので、ネパールガンジーは西へのハブ空港となっている。一度夏に行ったことがあるが、酸欠になるほどの暑さでで、ドルポと真逆の気候だ。

彼の解体の仕方は、ヤギが暴れないように、まずは手足を縛る。次に首に切れ目を入れ、血が飛び散らないように血を抜いていく。その血は桶に入れ、一滴たりとも捨てない。血が完全に抜けたら首を切り落とす。ここで一度お茶を飲んで休憩していたのだが、それには意味があるのだろうか(ないのかも!?)。

次に皮をすべて剥いでいくのだが、どうやったらそんなに綺麗に剥げるのか? というぐらいに皮と胴体が別々になっていく。最後は毛皮のまとまりと胴体部分となり、それを両方から引っ張って、足の爪は毛皮と一緒にして骨をカットする。すると一枚の「The毛皮」というの状態になった。

きれいに皮を剥がれたヤギ。いよいよ本格的な解体が始まる

続いて、胴体のみとなった身体から骨と内臓を剥がしていく。内臓は大きな袋状になっていて、そこに切れ目を入れて、胃袋、大腸、小腸、肝臓などをきれいにカットしていくさまは、さながら肉屋だ。そして、ポーターの若手のサディップが慣れた手付きでその内臓のすべてを川で洗う。

胃袋、大腸、小腸、肝臓など、内臓をみごとにさばいてくれた

小腸が長い長い! ちなみに一般的には、ウマやウシ、ヒツジなどの草食動物は小腸が長く、ライオンやオオカミなどの肉食動物は体長に比べて短いようだ。

長~~い小腸も川できれいに洗ってくれた

その腸の中を洗ってる時に、オシッコなのだろうか、黄緑色の液体がでてきたり、ウンコのような丸いものも洗い流したりしていた。最後は小さくカットして山分けをする。そして、すぐ焼いて食べようとなった。

実は、私は解体直後のヤギの肉が苦手だ。特に茹でる料理は、スープの匂いがきつくて、嘔吐してしまうか30分後に下痢となる。だからやめておこうと思ったが、今回はカリカリに焼いていて臭みもない。試しに醤油をかけて食べてみたら、おいしい! となり、この日はみんなで朝から肉を食べて、エネルギーチャージした。

しっかりと料理してくれたおかげで、お腹を壊さずに済んだ

出発時間は9時前となり、いつもより遅くなってしまったが、ダサインの時期に働いてくれているネパリスタッフのために、ヤギの肉でお礼の気持ちを伝えることは必要なことだ。

すっかり満腹となったのちに、ニサルからパンザンコーラ沿いを西へと向かった。今日歩くルートは、今まで訪れたことがない村を経由する。キャンプ地も現場で判断するので読図が必要でワクワクする。私達はまず、パンザンコーラの左岸を歩いたいたが、右岸にも川沿いギリギリのラインで人が歩いてるのが見えた。ヤク使いの人だ。毛のフサフサで夏はかなり暑そうなヤクは、川の中を気持ちよさそうにどんどん入っていた。私たちもヤクにならって川沿いを進んでいった。

毛が長く暑そうなヤクたちが、気持ちよさそうに川の水の中に入っていた

途中からは急登になってきて標高を上げていく。休憩しながら登っていくと、上の方に村が見えてきた。立派な家がいくつか見え、収穫時期のため畑ではみんな大忙しのようだった。さらに登っていくと、想像以上に家があってびっくりした。後ろを振り返ると、ニサルの村が遠くに見えた。

標高を上げていくと、谷沿いの斜面に棚田のように畑が広がっていた

立派な村があり、人々は忙しそうに畑仕事をしていた

村を過ぎてからは、道がはっきりしない感じになってきたので、登りやすいところを登っていくと、山肌が赤く見えてきた。紅葉だ、草が赤く山肌を染めているのだ。ドルポで紅葉が見られるとは思っていなかったのでうれしかった。

山肌は草木が赤く紅葉していて美しかった

登るにつれて、展望が抜群に開けてきた。天気がよいので、ドルポのあらゆる方向の山々が見えてきて、よく見ると山肌に一本の道が続いている。地図と方角をしっかり確認して進んでいくと、遠くに「ヘコピーク」の頭が見えてきた。特徴的な形をしているため、昔の人はこの山で方角を確かめていたそうだ。

山肌には家畜の道がたくさんあって、その中で最も幅が広い道を選んで歩いていく。遠くにヤクが荷物を乗せてやってくるのが見えた。さらに奥にはカルカ(仮小屋)も見えてきた。時計を見ると13:00を回っている。出発が遅れたのと朝から肉を食べたこともあって、あまりお腹もすいていなかったが、いつもより遅めのランチタイムをとった。

独特の形をした「ヘコピーク」。昔から目印になってきたというのもうなずける

初めて通る道なので地図で現在地を確認し方角を確かめる必要がある。地図にはないローカルルート、これまでに歩いたことのない地域だからいつもよりおもしろい。方角だけを頼りに進んでいくと、少女がドッコ(籠)を背負ってヤギを放牧させているところに遭遇した。さらに、マニ石がたくさんある場所を通過していくと、段々畑が見えてきた。

遠くには、紅葉で赤く染まった山肌が見えた。雲の影になっていても、赤いのがわかるほどだ。雲の動きで光が動いて、ものすごく美しい。色気を感じるような美しさに見惚れてしまい、思わず足が止まった。あらためて方角を確認すると、段々畑の下まで降りて、また登り返すことになりそうだ。ドルポではこの繰り返しなのだが、これはキツい。これがこの地での日常生活の一部というのは、本当にすごいなと思う。

畑仕事を手伝っていた16~7歳の少女、目が合うとほほえみを返してくれた

沢まで降りると小屋があり、人がいた。可愛い16~7歳ぐらいの女の子が畑を手伝っていた。目が合うと、ニコっと笑ってくれた。とても美しい。ガイドを通して話しかけてもらうと、チベット語で答えてくれた。ドルポからほかの地域には一度も行ったことがないそうだ。そして、今日の私たちが通過してきた村のヒュンジュンゴンパ(寺院)から来たと言っていた。

一日の最後にこの登り返しは厳しかったが、人や畑の美しさのおかげで最後の登りもがんばれた。この場所の名前を聞くと「ユドー」と言った。地図を見てみると地図の記載は村ではなく、ここはカルカのようだ。カルカとは、ある季節に限り畑や放牧をするところ、という意味だ。

この場所で、今日の行程を終えることにし、テントの設営を始めた。

現地の人は、ここを「ユドー」と呼んでいた。夏の間だけ住むカルカのようだ

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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