国境から二サルへ下山、慧海ルートのネパール側の探索は終了。古いゴンパを訪れ、思いを巡らす

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

国境クン・ラ、そして標高6028mのイェメルンカンを訪れ、慧海ルートのネパール側の探索を終了した稲葉さん。タッチの差で悪天候を避けることができた幸運に感謝しながら、再び二サルに戻り、ドルポの人と文化を感じる旅へと身を置く。

 

9/29 BC(5325m)~ニサル(3721m) 

朝、起きると雪が積もって真っ白で周りはガスに包まれていた。「昨日、登頂してよかった~、ナイスタイミングだった」と思わずにはいられなかった。予備日があるとはいえ、1日1日を無駄にせず直感で動いてよかったとあらためて実感した。

目が覚めると、すっかり雪景色へと変わっていた

7:20に出発したが、ガイドのアガムさんを見るとビニール袋に穴を開けて頭から被っていた。雨具を持ってないという。2ヶ月のトレッキングに雨具なしとは驚きだが、ネパール人にはよくあることだ。持っていたとしてもゴアテックスではないし、なんだかいつもこちらが申し訳なくなる。

ポーター達もみんなビニール袋を荷物にかけ、自分は濡れていることが多い。大きな荷物を運んでいると暑いし、汗と雨とぐちゃぐちゃになり、濡れてしまうからだろう。それで、私は大雨の時はなるべく停滞することにしている。

ビニール袋を雨具代わりにするガイドのアガムさん。申し訳ない気持ちになってしまう

ガスっているため先が見えにくく、まずはクン・コーラへと東へ進んで行く。方向に気をつけているが、足場がわるいため、アガムさんたちは先に行ってしまい見えなくなってしまった。伴ちゃんとは、お互いを見失わないように気をつけながら離れないように進んだ。途中で、これはどっちだろう? と方向が怪しくなり、じ~っとあたりを見渡していると、声が聞こえた。「誰? アガムさん? 狼だったらどうしよう!?」。真っ白の中、じっとしていたら、ガスの中から馬とアガムさんの姿が見えてホッとした。

ガスに巻かれて方向を見失うが、なんとか馬とアガムさんの姿を見つける

余談になるが、ネパールでは夜間は馬を縄で繋いでいないので、朝起きると馬がいなくなってしまうことが多い。そんなときは探しに行くのだが、その探す距離にびっくりする。前日のキャンプ地まで戻ってる時もあるし、まったく違う谷に入っているときもある。いなくならないように、繋いでおけばいいのにといつも思うが、そうしないのがネパール人。それでも、必ず自分の馬を見つけてくるのはすごい。これこそ、山の民というものだ。

さらに話がそれるが――、慧海日記にも、私の体験と似た出来事が隠されている。『河口慧海日記ヒマラヤ・チベットの旅』(奥山直司編/講談社学術文庫)によると、国境を越えた7月4日の日記の冒頭の抹消部分はヤクに関係があるようだ。出発が午前9時半という、例外的に遅い時間となっていることを注意深く読み取ると――、前夜、泊まり場で放たれたヤクたちが、夜のうちに餌を求めて山のほうに登ってしまい、これを集めるのに予定外の時間がかかったのではないかということが記載されている。時代は違えど、同じようなことがあることにうれしくなった。

歩きにくいモレーン地帯が続き、8:50に5200mあたりでクン・コーラに合流した。ここでようやく、はっきりした道に出てガスも抜けてきた。ここまでくれば歩きやすい。一昨日のキャンプ地を通りすぎ、どんどん下っていく。

10:30、ヤクの放牧地帯を通過した。同じ道だから帰りは早く感じる。1600mも下っていくので、空気がどんどん濃くなっていくのを感じる。ある程度下りきると、みんなの顔から緊張が解けているように見えた。

空気が濃くなり、道もよくなり、ようやく緊張が解けてくる

やがてニサルが見えてくると、2007年の旅で落馬したポイントを思い出した。道が広くなっている今は歩きやすくなっているが、当時は道幅が狭く、岩が剥き出しのカーブがあった。私は遠くから見て危ないと感じ、馬から降りようと思ったが、馬方が近くにいなかった。道が狭く降りる場所もないので、気合を入れて登ってみたが、直感が当たり、落馬してしまった。その瞬間、大きな声で「ぎゃーー」と叫ぶと、前方にいた大西バラサーブから「生きとるかーー!」と大きな声が聞こえた。

大丈夫か? ではなくて、生きとるかーって・・・。思わず「生きてま~す」と答えた。馬ともども、打撲と擦り傷だけで済んで良かったが、ズボンは破れていた。怖くなってその日はもう馬に乗らなかった。とっさに山側に倒れたからよかったのだが、谷側だったら馬と一緒に谷へと転げ落ちていただろう。

ニサルに戻るとヤギの購入を頼んだ。というのも、そろそろダサイン(ネパールでの最大の祭り)だからで、どこかで調達しようとスタッフに頼んでいた。私は遠征中、肉を食べたいと思わないが、ネパール人のメンバーは肉が好きで、必ずどこかでヤギを購入し解体して調理している。ヤギの購入は外国人や外の人間が交渉すると高くつくので、この時も馬方に調達をしてもらった。

そして私達は、ニサルのヤンツェルゴンパを見学しに行ったが、「今日は終わりだ」と開けてくれない。そのことを、ニサルに偶然出張していた警察官に話すと、「それはダメだ。せっかくドルポの奥地まで外国人が来ているのに失礼だ」と怒って、ラマさんを説得してくれた。そのおかげで、ゴンパの内部を見学することができた。

ところが、ここにある仏像たちはすべて埃まみれで可哀想に見える。ドルポの古いゴンパは、どこも同じような状況だ。それが逆に古さを物語っているとも感じ取れるので、ピカピカの仏像よりは好ましいのかもしれない。『ヒマラヤ巡礼』(デヴィット・スネルグローブ/白水社)によると、この僧院は、サキャ派のお寺として栄えたという。13~14世紀の3人の高名なラマの肖像や如来、一つ一つ違った目的で祀られている菩薩がある。詳しくは、本を読んでほしいのだが、サキャ派の守護神である呼金剛(ヘヴァジョラ)が描かれていたというが、現在は古い壁画の数々は残念ながら塗り替えられてしまっており、ニンマ派の信仰が実践されているという。

ゴンパ内部へ見学できて感謝! 埃まみれで可哀想な仏像達も無事に拝めた

話は少しそれるが、2020年1月のドルポ越冬中、ニサルに滞在していたとき、冬の大祭で泥棒に間違われてカメラを没収されそうになった。そのときの僧侶はこの2016年の旅で出会った僧侶だった。しかも、越冬中にホームスティして仲良くなった家族が、偶然にもこの僧侶の娘だった。

その縁のおかげで、あとで裏話を聞くことができた。数年前にチベット人と外国人が来て、仏像をたくさん撮影したあとに泥棒が入ったそうだ。それで泥棒かもしれないと警戒されたためで、この2016年の時の緊張感は、外国人の訪問に気をつけていたからだとわかった。

2016年9月27日、私の慧海ルートのネパール側の探索はこうして終了した。慧海師は、その後、カイラスを巡礼し、念願のラサへと到達した。私は慧海ルートを個人的な思いで2003年にカイラスを巡礼して歩き始めた。当初はマイブームとして楽しんでいたが、2007年に河口慧海研究プロジェクトに出会い、仲間に入れていただいた。

地図も読めなかった私は、現地でその術を学んだ。手取り足取り教えてもらったわけではなく、師匠たちの背中を見て学んだことだった。いつか、師匠たちが到達していない、ドルポの国境クン・ラを越えてカイラスまでのルートを歩きたいという思いで前半が終わった。旅の後半は、ドルポ内部を、慧海ルートではなく、できるだけ村々を歩き、最後はジョムソンへとゴールする。

次項からは、ドルポ内部を横断した日記へと続く。

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

編集部おすすめ記事