深い谷を登り返してたどり着いた「ポ村」、団結して助け合って生きている姿に心を動かされる

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

前日に目的地であるポ村に、谷を挟んで対岸まで到着した稲葉さん一行。翌朝、深い谷を登り返して到着した村では、人々は明るい表情で暮らしていた。かつて「ほろびゆくポパー」と紹介された場所は、水が輝き、人々は団結して暮らしているのだった。

 

10/2 ポ村の対岸キャンプ地(3626m)~ポ村(4087m)を周回 

前回~今回のルート。ポ村の対岸から谷を登り返して、いよいよポ村ヘ

6時11分、ポ村が見えている対岸のキャンプ地を出発した。5~6分すると沢が現われ、きれいな水が取れるポイントを見つけた。覚えておこう。

やがて道は黒部渓谷の「下の廊下」のような場所となり、道は狭く谷は深くなってきた。目の前にそびえ立つ壁は、まるで奥鐘山の西壁のように見える。そこをひたすら下っていき、やがて斜面を横切るトラバースへと続く。この厳しい道は生活路というのだから驚きだ。日本だったら橋が架かるだろうが、ここはドルポの最奥地、そんな物はない。

迫力ある岩壁に囲まれた深い渓谷の道を注意深く進んでいく

時折、谷底の川、「トラコーラ」が見えて、水の色がきれいだった。2009年、ムグから横断して来た時に見たトラコーラはものすごく茶色かったが、あれは雨季で濁流となっていたからだろう。

そんな沢沿いの道を進むと、まもなく橋の近くにいくつかのテントが見えた。ここは当初、私がテントを張ろうと思っていた場所で、外国人が来ているようだった。テントの数が少ないので私達と同じく小さい隊のようだが、トイレテントも見えた。ネパール人スタッフと遠目に挨拶だけして橋を渡る。橋はかなり年期の入ったものだったが、鉄も少し使われている、立派なものだった。

谷を下りきると、年季が入っているものの、しっかりとした橋が架かっていた

そこからの道はどんどん登っていく。登るにつれて、今まで下りてきた対岸の道が見えてくる。あらためて見返すと、土砂崩れのところがあり、遠くから見ると危なっかしい場所だったことに気づく。小さな道は山に一体化していて、道があると言われないと、どこにルートがあるかわからないほど細いものだった。

対岸から今まで歩いてきた道を見返すと、危なっかしい場所を歩いてきたことに気付いた

「この道は、作られたころとそう変わらないだろうな、最初に道を作った先人はすごい」と感動しながら登っていると、やがてケルンが見えてきた。そこからは対岸に私達の張ったテントが見え、その背後の名もなき山の姿もガスの中から現われてきた。

「カッコいい!」、思わず感嘆の歓声を上げる。昨日歩いてきた道まで見晴らすことができて、明日行く予定の道であるヤンブルバンジャンを越えるルートまで把握できた。

さらに上まで登ると、小さめのチョルテンが出てきた。まだ全貌は見えないが、村の入り口にたどり着いたようだ。登るにつれて村の様子がますます見えてくる。畑や小さな木、家々があり、そして子どもたちがいた。さらに収穫作業で忙しくしている男性の姿が見えた。

ポ村に到着すると、子どもたちが出迎えてくれた

農作業をしていた男性に話しかけ、村の様子を教えてもらう

早速、ガイドを挟んで話しかけてもらう。男性の名前はチメーレクジン(28歳)で、村の生活の様子を教えてくれた。このポ村には学校も病院もないため、みんな隣のビジョールの学校に行っている。買い物は、南はドゥネイ、近くの村ならニサル、国境ならクン・ラに行くという。そして村の最高齢者は男性はラマ(チベット仏教における僧侶の高位の人)さんで55歳、女性は66歳が2人いると教えてくれた。

さらに越冬を夢見ていた当時の私は、冬の生活についても尋ねる。麦刈りが終わって冬の間は、ドゥネイやカトマンズに下りる人もいるという。ヤクはビジョール~シェー~ポクスムド湖へと下りるということだった。

村の中へと案内していただき、村の様子をいろいろと教えてもらった

最後に、最近外国人は来ているか? と聞くと、今年(2016年)は、ムグから3パーティ、ドルポから3パーティが訪れ、案内人を頼まれたことがあるといっていた。

ちなみに、初めてこの村を訪れた外国人は日本人で、1958年の西北ネパール学術探検隊(隊長・川喜田二郎氏)だ。ツァルカ村でドルポの生活をフィールドワークし、『ヒマラヤ~秘境に生きる人々~』(教育社/著:川喜田二郎・高山龍三)、映画『秘境ヒマラヤ』(1958年西北ネパール学術探検隊/川喜田二郎隊長の記録映画、読売映画社制作)を発表している。

その頃、ポ村の人口は31人で、「ほろびゆくポパー」と記されている。その当時「この村は3年先には放棄され、分散していくだろう」と言われて「村内では結婚はできず、貧しい村には嫁も来ない。そのためであろうか、独身者が多いと」と記録されていた。

ところが、2009年西北ネパール登山隊(隊長:大西保)でムグから横断して来た時の人口は50人、そして今回の2016年は75人と確実に増えている。村を見渡すと、水路がしっかりと生きていて、全く枯れていない。これだ、これは生命の水なのだ。私には、水路の水が輝いて見えた。

少し話が逸れるが、ポ村周辺に日本人が訪れたほかの記録は2つ確認できる。1つは実際にはポ村までは来ていないものだが、1972年に東京山旅倶楽部西北ネパール登山隊が、カンジロバ山群・パトラシヒマールの最高峰であるカンデヒゥンチュリの初登頂後に、隊の2名がポ村の西の谷の冬のラングコーラを遡行した記録が残っている(10月下旬にBCを出発、ララ湖を回ってカルナリ川沿いに進み、ムグ村に立ち寄った後に、カンジロバ北面のラングコーラを遡行し、翌年1月初旬にポカラに到着)。

もう1つは、1973年鎌田千秋氏(関西学院大学山岳部OB)が、パキスタンのイストル・オ・ナール遠征が印パ戦争のために不許可となり、急遽、目的を変更して訪れたものだ。単独でネパール人と隊を組み、秋から冬にかけて西北ネパールの山旅をしている。そのルートは、スリケットからジュムラ、そしてバルブンコーラ沿いを進み、ツァルカを経由してポカラまで横断をした記録である。

私は、のちにドルポ越冬を計画する際に、これらの記録から色々なヒントをもらった。このような先人たちと生きる時代が少しだけ重なったおかげで、お会いすることもできた。実際に話ができたときには「ぎりぎり間に合った」という思いだった。

話をポ村来訪に戻そう。私はこの村の人たちの話をもっと聞きたいと思い、「この村にはラマさんはいるのか?」と尋ねた。すると村人たちが集まってくれて、家に招待してもらうことになった。行ってみると、見覚えのある人が数名いることにきづいた。以前に来たときに写真を撮らせてもらった人だ。その中にはネパール語も話し、少し英語もできる人がいたので、詳しく話を聞かせてもらうと、その人こそがラマさんだという。インドのバンガロールなどに合計8年いたそうだ。

家に招待してもらい、多くの人が集まってくれた

この方から、ポ村の歴史と現在の状況について詳しく教えてもらったので、少しの間お付き合いいただきたい。800年前、このあたりにはタマン族が住んでいて家は100世帯ほどあっ たものの、水がなくなり一度廃村になったという。しかし500年前に復活し、当時はグルン族、ラマ族がおり、チベット語を話していた。今も主要語学はチベット語だがネパール語も話す人もいる。

ポ村の古いお寺は、800年前にできた「テムジョゴンパ」があるが、隣の村にお金を借りて再建中。お寺や病院、学校など作るための海外からの資金支援はまったくないそうだ(2016年当時)。残念なことに隣の村のビジョールでその支援は止まっているという。

この話を聞いて、映画『キャラバン』(監督:エリック・バレィ、日本公開2000年)のティンレ役の故 ツェリン・ロンドゥップ氏がよく似たことを言っていたことを思い出した。

2009年、ムグからドルポを横断した際に、私はポクスンド湖でロンドゥップ氏に偶然遭遇した。その時に色々聞いた中で「ドルポ内部の村では海外からの支援の差が出ている」と話していて、その切実さは今でも明確に覚えている。「カトマンズから遠いから、(ネパール政府は)ドルポのような奥地のことまでわからない。吊り橋は人口が少ないから作ってくれない」とも言っていた。

ドルポのことを調べているときに知ったことだが、ドルポは、10世紀ごろからチベット人が住んでおり、19世紀まではチベットのン・ガリ(西チベット)に属していたとされている。ネパール領になってからも、地理的には隔絶された場所だったため、カトマンズの政府と直接連絡が取れるようになったのは1963年だった。もちろん、このような環境のおかげで古い時代のチベット風習が今でも色濃く残っているわけだ。

カトマンズにいるネパール人でさえ、ドルポのことを知らない人がいたり、ドルポの人でカトマンズに行ったことがない人もいたりする。そのため、ポ村の人たちは自分達で率先して寄付を募っている。 その寄付のお金でキャンプサイトを作り、次は道を大きくする予定だという。

ポ村はドルポで一番貧乏だとも言っていたが、毎年、農作物のためにお祭りをして、雪が降るころには村人みんなでプジャ(法要)をする。彼らからこのような話を聞かせてもらい、村人が団結して助け合って生きている姿が本当にすばらしいと感じた。

最後に古いお寺(ゴンパ)を見学させてもらった。そこには、古い壁画や小さな仏像、経典が埃をかぶってはいるものの、昔の姿のまま残っていた。私はそれを見て、ピカピカのお寺より、そのままを感じることができてとてもよかったと感じ、最後に寄付をしてテント場まで戻ることにした。

村にある寺院(ゴンパ)に案内してもらう。古い壁画や小さな仏像が残っていた

埃をかぶってはいたものの、古い経典が昔の姿のまま残っていた

戻る道も川まで下って、また登り返す。その途中で、以前来たときに、「次はここで泊まってみたい」と思っていたお気に入りの場所に立ち寄った。それは洞窟で、中から外を見ると完全に別世界となる。自分の内側が見える、感じるような場所で、私には、もう1つの自分がいるように見えた。なるほど、だからドルポには瞑想窟がいっぱいあるのかと妙に納得する。次こそはここで泊まってみたいなと思いながら、撮影だけしてテント場に戻った。

洞窟の中から外を見る。自分の内側が見えるような、神秘的な場所だ

余談になるが、ドルポの代表的なアーティストのテンジン・ヌルブ氏の絵には、洞窟の中から外をのぞいたような景色、あの洞窟と同じような景色の作品があることに、数年後に気づいた。ネパールのボダナートのドルポカフェに、この作品は展示されているので、ご興味ある方はぜひ見に行ってほしい。

このポ村への旅では、ラマさんの人柄が一番心に残った。ここで先の話を紹介すると、ラマさんとはその後に交流することになったのだった。3年後に、なんとFacebookでラマさんに再会できたのだ。2016年当時は、ドルポの人はほとんどSNSをしていなかったので驚いた。わずか3年でドルポにもスマートフォンが普及し、村の内部ではまだ電波は届かず、そこまで普及していないものの、少しずつ使えるエリアも増えていた。

そのおかげで、2019年の秋のドルポ越冬の出発前には、このポ村のラマさんと連絡が取れて力を貸してもらうことができた。そして厳冬期に、2回も私の越冬拠点地の村のサルダンまで会いに来てくれたのだ。次回、ドルポを訪れたとき、ぜひ彼と再会したいと思っている。

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

編集部おすすめ記事