アラスカの自然とともに。写真家・星野道夫さんと極北の蝶

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文・写真=昆野安彦

写真家の星野道夫さんが亡くなってから27年が過ぎた。私もアラスカの自然が好きなので星野さんの著作には一通り目を通しているが、生前出された本に昆虫の写真は見当たらない。

一方、星野さんの没後に刊行された本には数は少ないが、昆虫の写真が何点か掲載されている。たとえば、写真集『Alaskan Dream ③ 愛の物語』(ティビ ーエス・ブリタニカ刊、※現在はCCCメディアハウスより刊行)の113ページに、アラスカの原野で撮影したと思われる蝶の写真が一枚掲載されている。

星野道夫さん撮影のアラスカの蝶の写真。『Alaskan Dream ③ 愛の物語』の113ページに掲載されている。花は日本にも自生するチョウノスケソウだ。(星野道夫事務所の許可を得て掲載)

アラスカは日本より北に位置するため、標高の低い場所でも日本の高山帯に相当する環境が見られる。そのため、日本では高山蝶と呼ばれる蝶を、アラスカでは低地で見ることができる。たとえば、日本では大雪山だけに生息する高山蝶のウスバキチョウとアサヒヒョウモンは、アラスカでは海岸線近くの低地でも飛んでいる。このため、アラスカの蝶を高山蝶とは呼べない。そこで私はアラスカの蝶に畏敬の念をこめて、「極北の蝶」という呼び名を与えている。

私は極北の蝶に興味があり、何度かアラスカと、アラスカに隣接するカナダのユーコンを訪れてきた。これまでに訪れた所を書き出してみると、Brooks Range(ブルックス山脈)、Galbraith Lake、Atigun Pass、Coldfoot、Wiseman、Eagle Summit、Fairbanks(フェアバンクス)、Denali National Park(デナリ国立公園)、Paxon、Anchorage(アンカレッジ)、Kenai (以上、アラスカ)、Dawson City、North Fork Pass、Windy Pass(以上、ユーコン)などである。

私が極北の蝶を探しに訪れたアラスカとユーコンの主な場所(概略図)。北はブルックス山脈から南はキーナイまで、すべてレンタカーで移動した

星野さんの本を読むと、星野さんはアラスカではおもに小型飛行機をチャーターして原野に赴いているが、一介の旅行者である私はすべてレンタカーを使っての移動だった。アンカレッジやフェアバンクスで車を借りたが、あまり運転は得意な方ではないし、さらに日本とは異なる右側通行なのでそれは大変だったが、都会を少し離れると走る車はごく少なく、私の運転でもなんとか無事故で帰還できたのは幸いだった。

デナリ国立公園を訪れたことがあるが、ビジターセンターに立ち寄ったら、日本では平凡社から発売されている写真集『MOOSEムース』の英語版(Chronicle Books)が売り場に置かれており、同じ日本人としてとても誇らしく思ったことを覚えている。1990年6月のことだ。

アラスカの道路は日本の高山帯を走っているようなものなので、車を降りて道を外れて歩けば、もうそこはツンドラの大地が広がる極北の蝶の生息地である。私が自然観察でよく訪れる北海道の大雪山では登山道以外を歩くことはできないが、アラスカの原野はどこを歩こうと基本的に自由だ。

Paxon近郊のアラスカの原野。車を降りるとそこは日本の高山帯の環境で、ここでは日本では大雪山だけに生息するウスバキチョウが見られた

グリズリーと呼ばれる大きなクマや、時として人を襲うこともある大きな鹿のムースがいるので気をつけなければならないが、野性味あふれる極北の原野を自分の意思で自由に歩くのは少年の頃に憧れた探険家のような気分になって楽しい。ちなみに、私がいちばん好きな星野さんの本は「アラスカたんけん記」(福音館書店)。アラスカに憧れて写真家になるまでのストーリーが美しい写真とともに描かれている。

アラスカの花に止まるウスバキチョウの写真は、Paxon(パクソン)という小さな町の近郊で撮影したものだ。アラスカ遠征の第一の目標がこの蝶の観察だったので、首尾よく出会えて撮影に成功した時はとても嬉しかった。

アラスカのウスバキチョウ(Paxon近郊にて撮影)。大雪山の高山蝶・ウスバキチョウと同種だが、北米亜種として区別されている。止まっている花は日本に自生するイブキトラノオやナンブトラノオによく似ているのが興味深い

私の自然観察はこのように写真撮影が主体だが、アラスカの蝶をより詳しく調べるためには写真だけでは限界があり、アラスカに行った時は必要最小限の採集も行なっている。ここには私がアラスカで採集した4種類の蝶の標本を示したが、どの種も日本では高山蝶と呼ばれる蝶の仲間で、標本を作りながらアラスカの原野と日本の高山帯の自然環境の共通性を改めて認識したものである。とくにアラスカのアサヒヒョウモンは星野さんが撮影した蝶とよく似ていることに気づく。

アラスカのタカネヒカゲ属の一種(Atigun Passにて採集)。日本の高山蝶であるタカネヒカゲやダイセツタカネヒカゲにとてもよく似ている
アラスカのベニヒカゲ属の一種(Atigun Passにて採集)。日本の高山蝶であるクモマベニヒカゲやベニヒカゲによく似ている
アラスカのモンキチョウ属の一種(Atigun Passにて採集)。日本の高山蝶であるミヤマモンキチョウの近縁種である
アラスカのアサヒヒョウモン(Atigun Passにて採集)。大雪山のアサヒヒョウモンと同種で、星野道夫さん撮影の蝶はこの蝶かもしれない

もっとも、アラスカにはアサヒヒョウモンによく似た別種の蝶が何種類かいるので、星野さんが撮った蝶をアサヒヒョウモンそのものと決めつけるわけにはいかない。しかし、少なくともアサヒヒョウモン、またはその近縁種であることは間違いない。星野さんの写真がいつどこで撮られたのかは分からないが、彼がこの小さな蝶を撮るために身をかがめてカメラを構えている姿を想像すると、星野さんの新たな側面が見えてくる。

星野さん撮影の蝶が止まっている花は、大雪山にも自生しているチョウノスケソウだ。このため、何の説明もなしにこの写真だけを見せられたら、蝶に詳しい人でもこれを大雪山で撮ったものと思うかもしれない。

参考のために大雪山のチョウノスケソウの花と大雪山のアサヒヒョウモンの生態写真を示した。残念ながら私はまだチョウノスケソウの白い花に止まったアサヒヒョウモンの写真を撮ったことがないが、もし撮れたら、それは星野さんの写真の構図に、きっとそっくりになるだろうと思う。

星野さんの写真で蝶が訪れているチョウノスケソウは、大雪山では高山植物として広く自生している(大雪山・小泉岳にて)
チシマツガザクラの蜜を吸う大雪山のアサヒヒョウモン。私は残念ながら、まだチョウノスケソウの花に止まる星野さんのような写真を撮ったことがない

冒頭で没後に刊行された本に昆虫の写真が幾つか掲載されていると書いたが、星野道夫作品の著作権者である星野直子氏のご教示によると、星野さん撮影の昆虫写真が掲載されている本は、今回紹介した本を含めて次の5冊の写真集とのことである。もしこれらの本をお持ちの方は、改めて御覧いただければと思う。

  • 『Alaskan Dream ③ 愛の物語』(CCCメディアハウス)※今回掲載した蝶
  • 『Michio’s Northern Dreams 文庫版 6巻 花の宇宙』(PHP研究所)※今回掲載した蝶の別カット、トンボの一種、およびバッタの一種
  • 『星野道夫の世界 第1巻』(ユーキャン出版局)※今回掲載した蝶の別カットとトンボの一種
  • 写真展『星野道夫の宇宙』図録 ※今回掲載した蝶とバッタの一種
  • 『新版 悠久の時を旅する』(クレヴィス)※今回掲載した蝶の別カット

以上、星野道夫さんが撮影した極北の蝶について、私の経験も含めてさまざまな角度から考察を加えてみた。アラスカの大自然と言うと、やはりグリズリーやムースなどの大型動物のイメージがまず思い浮かぶが、足元の花々に目を向ければ、今回紹介した極北の蝶をはじめとする小さな生きものの姿もきっと見つけることができるだろう。

もしいつかアラスカに行こうと考えている人がいれば、そうした足元の生きものにも是非、目を向けていただければと思う。そう、星野さんがこの極北の蝶にレンズを向けたように。

謝辞:今回の記事を書くに当たり、星野直子氏からは種々ご教示を賜りました。また、写真集からの写真の複写・掲載に関しては星野道夫事務所の許可を得ました。星野直子氏と星野道夫事務所に対し、ここに深く御礼申し上げます。

私のおすすめ図書

新版 悠久の時を旅する

この本は2012年刊行の同名の写真集に新たに寄稿文3編と写真作品10点を加え、ハードカバーの新版として刊行されたものです。写真はアラスカと、最後の地となったカムチャッカまでの24年間の足跡をたどる形で網羅されていますが、32編のエッセイも併載され、じっくり見て読むことのできる内容になっています。私が思う星野さんは、この本のタイトルの通り、アラスカを舞台に悠久の時を旅した人だと思います。6名の方による寄稿文の内容は私の知らないことばかりで、星野さんを深く知る上でこの本を手にしてとても良かったと思います。幼少の頃の写真や自作の写真アルバムも掲載されており、このたぐいまれな写真家を知る上で、重要な一冊になっています。

著者 星野道夫
発行 クレヴィス(2020年刊)
価格 2,750円(税込)
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私のおすすめカレンダー

星野道夫カレンダー「極北の動物たち」ベストセレクション

星野さん撮影のアラスカの野生動物で構成された2024年版の壁掛け用カレンダーです。ベストセレクションの名の通り、力強く、また星野さんの優しいまなざしが見えるような代表作品で構成されています。各月には写真に合わせた星野さんの言葉が添えられていますが、リビングに飾れば、星野さんが愛したアラスカの悠久の時の流れを感じることができるでしょう。

著者 星野道夫
発行 山と溪谷社(2023年10月発売)
価格 1,540円(税込)
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プロフィール

昆野安彦(こんの・やすひこ)

フリーナチュラリスト。日本の山と里山の自然観察と写真撮影を行なっている。著書に『大雪山自然観察ガイド』『大雪山・知床・阿寒の山』(ともに山と溪谷社)などがある

ホームページ
https://connoyasuhiko.blogspot.com/

山のいきものたち

フリーナチュラリストの昆野安彦さんが山で見つけた「旬な生きものたち」を発信するコラム。

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