安曇野のナチュラリスト、田淵行男の葉書を読み解く

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文・写真=昆野安彦

古書業界では、作家などの文化人の葉書も研究資料として取り引きされている。作家の場合、宛先は編集者のことが多く、原稿の進み具合、あるいは出版後の礼状など、作家の生前の日常が分かって貴重である。画家の場合は葉書に絵や版画を描くことがあり、これも貴重だ。

山岳写真家の田淵行男(1905-1989)の葉書も古書目録に出るようになった。私が最近見たのは、田淵さんの書籍を担当したと思われる編集者宛の賀状だ。この賀状には田淵さん自身による高山蝶の版画が摺られており、額装すれば、一級の美術品として楽しむことができるだろう。

1987年の秋、私はこの田淵さんに高山蝶の研究レポートをお送りしたことがある。当時の私は茨城県に住んでいたが、レポートをお送りしたことも忘れかけた翌年の2月、ふと郵便受けを覗くと一枚の葉書が入っていた。見ると、差出人は田淵行男とある。裏を見ると次のように書かれていた。

私宛ての葉書。消印は1988年2月20日で、私の住所は当時のものである。葉書には地面の石にとまるオオイチモンジの写真がレイアウトされている

「拝復 先日の昆野様よりのお手紙を、豊科日赤病院で田渕(原文ママ)さんに読んであげましたものでございます。田渕さんは、昨年十月より脳こうそくで、入院なさり、看病にあたっていました奥様も、一月四日ベッドの人となられ、お二人同室で加療中です。半身はききませんが、頭の方はしっかりしています。一日も早い御快ふくを願いて、代筆で、御本の御礼と、近況をお知らせ致します。」

脳梗塞のことは、このとき初めて知った。愕然とした気持ちになったが、病床の田淵さんが私のレポートに目を通していただいたことと、御返事をいただけたことに私は深く感謝した。また、どなたかは分からないが、美しい書体の代筆の方にも頭が下がる思いだった。

この葉書には下段にオオイチモンジのカラー写真が大きく印刷されている。今のプリンターによる手軽なものではなく、相応の業者による印刷と思われる。

田淵さんの葉書のオオイチモンジの写真。石の周囲にはコケが写しこまれているが、私はこの場所をどこかで見たような気がしてならない

オオイチモンジは地面の石の上で大きく翅を広げているが、よく見ると石のまわりにコケなどの緑も写しこまれ、蝶、石、緑の対比が美しい。恐らく田淵さんがトリミングとレイアウトを指示したのだろうけれど、その点はさすがというべきだ。

写真の下には『高山蝶(オオイチモンジ) 田淵行男』のキャプションがあるだけで、撮った場所は分からないが、私はこの場所をどこかで見たような気がしてならない。

徳沢の上流から見た前穂高岳の稜線(中央)と河畔林(手前)
徳沢の上流から見た前穂高岳の稜線(中央)と河畔林(手前)。オオイチモンジはまだ幼虫の段階の5月下旬の撮影である

それは徳沢の河原の河畔林だ。ここは少し湿っぽく、田淵さんの写真のようなコケが石の隙間を埋めている。撮影場所は書かれていないが、恐らく私の推理は当たっていると思う。参考のために私が徳沢で撮影したオオイチモンジの写真を添えたが、田淵さんの葉書の写真に雰囲気がよく似ている一枚だ。

オオイチモンジ
オオイチモンジは水を吸うために地上に降りることがある。これは徳沢での撮影で、田淵さんの葉書の写真に雰囲気がよく似た一枚だ

なお、この田淵さんの葉書のオオイチモンジの写真について調べてみたところ、1981年に出版された『講談社カラー科学大図鑑 北アルプス』に使用されていることが分かっている。

『講談社カラー科学大図鑑 北アルプス』(田淵行男著、1981年刊)
『講談社カラー科学大図鑑 北アルプス』(田淵行男著、1981年刊)。この本の25ページに田淵さんの葉書のオオイチモンジの写真が掲載されている

オオイチモンジがどんな蝶か、ここで少しこの蝶の生態について紹介しよう。北海道と本州に生息するが、本州産の個体群は高山蝶として扱われている。日本には13種類の高山蝶が生息するが、本種はその中の最大種で、その風格から「高山蝶の王様」と呼ばれることもある。なお、名前の由来は「翅の模様の白い帯が、一本の文字に見える大きな蝶」だ。

成虫は7月頃羽化し、交尾後のメスは上高地に多いヤナギ科のドロノキの葉に産卵する。ほどなくして孵化した幼虫はドロノキの葉を食べて成長し、秋になるとドロノキの枝に小さな筒状の巣を作ってその中で冬を越す。無事に冬を越すことができた幼虫は、春になると再びドロノキの新葉を食べて成長し、6月頃、ドロノキの葉上で蛹となり、その後、羽化する。

ドロノキの葉にとまる羽化したばかりのオオイチモンジ(上高地)
ドロノキの葉にとまる羽化したばかりのオオイチモンジ(上高地)。褐色と白色が織りなす模様が美しい

7月になると、羽化した成虫がドロノキの梢を飛び回っている様子を観察できるが、穂高の山並みを背景にしたそのダイナミックな姿は、「高山蝶の王様」と呼ぶにふさわしいものがある。

ドロノキの梢を舞うオオイチモンジ(上高地)
ドロノキの梢を舞うオオイチモンジ(上高地)。「高山蝶の王様」にふさわしい、ダイナミックな飛翔だ

上高地では初夏や秋にドロノキの葉を注意深く見て回ると、幼虫や蛹の姿を見つけることができる。私が見つけた蛹は抜け殻だったが、逃げも隠れもせず、葉の真ん中で堂々と蛹になるところが、「高山蝶の王様」にふさわしいこの蝶の面白い習性のひとつと言えるだろう。

上高地のドロノキの葉で見つけた蛹(抜け殻)
上高地のドロノキの葉で見つけた蛹(抜け殻)。すでに成虫が羽化した後だが、幼虫が葉のどのような場所で蛹になるかが分かる貴重な写真である

葉書を頂いた年の秋、講談社から『アシナガバチ 日本産全種生態』(田淵行男著)が刊行された。田淵さんらしいとても立派な本で、きっとお元気になられたのだろうと思っていたが、翌年の5月30日、83歳で他界された。結局、この『アシナガバチ 日本産全種生態』が生前最後の本になった。

当時はインターネットもスマホもない時代だったので訃報は新聞記事で知ったが、この記事に接したとき、とうとうその日が来てしまったのかと、何とも言えない寂しい気持ちになったことを覚えている。

今でも時々この葉書を出して見ることがあるが、山岳写真家として、また自然観察者として、その偉大な業績の数々を、改めて思うのである。

私のおすすめ図書

黄色いテント(ヤマケイ文庫)

黄色いテント(ヤマケイ文庫)

この本は1985年に実業之日本社から刊行された本をヤマケイ文庫として再編集したものです。田淵さん唯一のエッセイ集ですが、私は最初の刊行時に神保町の書泉グランデで買い求めました。内容もさることながら、まず注目すべきは田淵さん愛用の黄色いテントが星の軌跡とともに写る見事なカバー写真です。このテントは田淵さん設計による特注品で、当時としては斬新な構造だったそうです。その制作過程については本の冒頭に書いてありますが、この本を手にする機会があれば、まずこのカバー写真をじっくり味わい、その後に本文を読み進めていただければと思います。田淵さんと親交の深かった大森久雄氏による文庫本のための解説も必読です。

著者 田淵行男
発行 山と溪谷社(2018年刊・ヤマケイ文庫)
価格 1,100円(税込)
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プロフィール

昆野安彦(こんの・やすひこ)

フリーナチュラリスト。日本の山と里山の自然観察と写真撮影を行なっている。著書に『大雪山自然観察ガイド』『大雪山・知床・阿寒の山』(ともに山と溪谷社)などがある

ホームページ
https://connoyasuhiko.blogspot.com/

山のいきものたち

フリーナチュラリストの昆野安彦さんが山で見つけた「旬な生きものたち」を発信するコラム。

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