【書評】郷愁を呼びおこす山村を舞台にした連作短編集『はじまりの谷』

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評者=高桑信一

歯科医師が本業の著者には、すでに専門分野での多くの著書があるが、80歳を迎え、初めて挑んだ小説が本書である。

連作短編集の形式で、山に生きる老人と、彼を慕い行動をともにして、生きるすべを学びながら成長する少年の物語だ。少年は、かつての著者の投影でもある。

舞台は戦後間もない上州の山村で、文明の利便はいまだ遠いが、豊かな山川の暮らしに、生きることへの不自由はなかった。

物語は「ウサギ罠」からはじまる。老人から教わって仕掛けたウサギ罠を見まわるために、少年は単身で冬の山に分け入るが、思いがけなく初めての獲物が罠にかかっている。しかし少年の歓喜と興奮をよそに、ウサギは死にかけていて、少年はウサギを飼育しようと試みるが、結局は死なせてしまう。少年にとって、みずからの責任で、初めて野生のいのちと直面することになる鮮烈な洗礼であり、ほろ苦い教訓であった。

連作は次のように続く。

「春の雪」
「はじまりの谷」
「夏の終わり」
「残光」
「白い谷」
「入学の朝」

翌年の春、小学校に入学するまでの一年と少しの歳月を、季節を追って物語は進行していき、少年はさまざまな体験を通して学びを深めていく。その姿を、著者は清冽な筆致でつづる。

「春の雪」では、隣村に住む叔父の家に山越えで向かい、従弟たちと春祭りを楽しむが、その帰路に新雪で覆われた山で道に迷い、やっとの思いで帰り着く。

「はじまりの谷」では、湧水の近くで遺跡を発掘して、この地に古代から続く祖先の存在に気づき、いのちの連関を育む山上の水源を夢想する。

「夏の終わり」は、老人と出かけた農協で、いつも遊んでくれる女子職員の結婚を知って別れを予感し、「残光」では、川漁を教えてくれた老人の孫の死を知って、いのちの儚さに思いをはせる。

「白い谷」は、とうの昔に姿を消したが、当時は木材搬出の主流だった木馬(きんま)の作業が描かれる。その危険な仕事の助手を、就学前の児童に行なわせているのがいささか不自然に思えるが、今では目にすることもかなわない貴重な木橇の搬出風景の描写は新鮮である。

その作業で老人は事故に遭い、生死をさ迷った末に生還するが、「入学の朝」、少年は、以前とは変わった老人の姿に静かな衝撃を覚える。生きていく上で最も大切なのは、逆境に立ち向かう不屈の闘志だということを、この朝少年は老人から学んだのだった。

美しい山の情景とともに生きる少年と老人の交流を活写する、詩情あふれる作品である。

はじまりの谷

はじまりの谷

丸橋 賢
発行 エイアンドエフ
価格 1,650円(税込)
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丸橋 賢

1944年、群馬県生まれ。東北大学歯学部卒業。同学部助手を経て、74年に丸橋歯科クリニック開業。主な著書に『歯 良い治療悪い治療の見分け方』(農山漁村文化協会)、『退化する若者たち』『心と体の不調は「歯」が原因だった!』(ともにPHP新書)などがある。小説作品は本作が初。

評者

高桑信一

1949年、秋田県生まれ。取材カメラマン・ライターとして活動するかたわら、古道や里山の暮らしを取材する。著書に『古道巡礼 山人が越えた径』(山と溪谷社)ほか。

山と溪谷2024年9月号より転載)

プロフィール

山と溪谷編集部

『山と溪谷』2026年1月号の特集は「美しき日本百名山」。百名山が最も輝く季節の写真とともに、名山たる所以を一挙紹介する。別冊付録は「日本百名山地図帳2026」と「山の便利帳2026」。

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