【特別編・後編】稲葉香、シェー山を周回巡礼。続いて、ムグへの横断の旅へ――

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12年に一度行なわれるチベット仏教徒の巡礼祭「Shey Festibal」(シェーフェスティバル)に参加した稲葉さん。その後は、地元の巡礼者に交じってシェー山の周回巡礼に参加。 祭りが終わった後は、5000m超の峠をいくつも越えながら、ムグへと横断。2024年のドルポへの冒険の後編をお届けする。

※本記事は、稲葉香さんが2024年7月下旬~10月下旬に行った、チベット仏教徒の巡礼祭の様子のルポとなります。今回は2016年に行った遠征の連載から離れて、8年の年月を経て感じたドルポの様子を、稲葉さんの視点からレポートします。

★前編:12年に一度ドルポで行なわれるチベット仏教徒の巡礼祭へ行く

 

シェー山の周回巡礼は前回とは異なるルートだった

シェーフェスティバルの最中には、シェー山の周回巡礼を行なった。巡礼のスタート地点は4662m、シェー山の周りを巡り、ドルマ・ラ(5343m)を越える約25kmのコースだ。ちなみに、シェー山の「シェー」とはチベット語で水晶を意味し、ドルポ最大の聖なる山である。

1200年ごろ、チベットからセンゲイェシェーという修行者がこの地にやってきて、ゴモチェンゴンパの洞窟で瞑想し、シェー山=シェー・ギリウォ・ドゥクタ山(龍が鳴く水晶山)の正面に飛んで山肌に穴を開けたと言われている。

驚いたことに、ドルポの人々はシェーの大祭の期間に、この周回を3回以上もする人もいる。この理由は、今回初めて知ったことだが、来られなかった人に頼まれたり、誰かのために巡礼したりすることがあるためだという。ちなみに私は今回、巡礼するのに13時間もかかった。12年前は頑張って10時間だったのだが・・・。ちなみに現地の人達は、6~8時間で一周するという。

シェー山巡礼時の様子

ただし、巡礼のルートについては12年前とは異なる部分があった。巡礼の入り口から登りを直進したあと、大きな石で分岐となり、道が2つに分かれる。12年前は左側の山肌に沿って登っていくルートだったが、今回は進行方向に見える正面の大岩壁に向かって登っていき、その大岩壁をさらに登っていくルートだった。

道が険しさを増していくあたりから、聖地の山の雰囲気がどんどん濃くなってくる。この岩山を通る際、私は動画を撮影した。河口慧海日記の中で記載されていた、以下の文章を思い浮かべ、気になっていたことがあったからだ。

「中央に在る大厳の二山を指して曰く、これ冥界の二大王にして、一つは白道の王として、一つは黒道の王となりと」 

出典「河口慧海日記」河口慧海/奥山直司編

この表現について、慧海師のいう「大厳の二山」がどの山を指すのか、私は現場で再確認したかった。12年前にも写真は撮ったが、結局特定できなかったため、今回はその周辺を動画撮影した。ちなみに2012年の私の巡礼と河口慧海師が巡礼した様子は以下の記事を参照してほしい。

★過去記事:ドルポ最大の聖地、シェー山に到着。周回巡礼の想い出と共に三大ゴンパを訪れる

 

少し悔いの残るムグへの横断の旅

遠征前半の予定、ドルポ内の滞在が終わり、後半はいよいよムグへと横断する旅が始まる。ジュムラ(遠征スタート地点)を出発して41日目の9月7日に出発したが、これは当初の予定より2日遅れていた。ただし、これは仕方のないことでもあった。計画の立案時は、大祭は4日間と聞いていたが、実際には7日間であったためだ。大祭を見届けることを重視したために、スケジュールは遅れてしまった。最終ゴールがララ湖であることは変わらないが、そこに至るルートをどう定めるかによって、今後も日程はもっとずれるかもしれない。

ガチガチに予定を決めないで、その都度計画を考える――、長期遠征ではそのような柔軟性を持っておくのがコツだ。私の頭の中にはいつも、歩きたいルートや見たい山が存在していて、複数の選択技に加えてエスケープルートもしっかり頭に叩き込んでおいている。そうすることで、現地で何があっても、そのプロセスを楽しむことにつながっている。

今回の横断ルートは相当ハードになることを、私はある程度予測できていた。なぜかというと、2009年に大西保隊長の西北ネパール登山隊に参加した時に、今回のルートを逆から横断した経験があるからだ。それは、ものすごくハードだったことを鮮明に記憶していいる。

最終目的地の国境手前で記念撮影撮影

当時の私が経験していた山旅と比べると、この旅は衝撃的なほどおもしろく、今までと違う扉を開けた気分になった。一般的なトレッキングではルートを示す地図があり、キャンプ地が決まっていてロッジもある。しかし当時の西ネパールには、そうした施設も、ルート付きの地図もなかった。

地図と地形を凝視して、ルートやキャンプ地を自分自身で見極めながら進む。ネパール人ガイドさえも道を知らないどころか、行ったこともない場所がほとんどだった。そのため、状況を見極めて総合的に判断して進む必要があり、これがものすごくおもしろいと感じた。現場ではいろいろなことが起きるが、一つずつ問題を解決していく行程に「これこそが山旅だ!」と感じた。いつかこのような山旅を、自分でもできるようになりたいと思い、今まで西ネパールに通ってきた。

それから15年の年月を経て、逆コースとはいえ同じ場所に直面していることが感慨深かった。ただし、実際には15年前に一度歩いたことがあるルートが半分と、未知のルートが半分だった。歩いたことがあるルートの中で、最も思い出深いことを一つ紹介しておきたい。

それは標高5000mの場所を歩く縦走路だ。ポ村(4052m)から1000m以上登り、標高5000mの稜線を縦走するルートは、時間にして8時間以上、約10kmにわたる。その間、5000m以上の峠を2つ越え、稜線の最後の峠(5559m)を越えると、次は1000m以上も下るという、とにかく長いルートだ。

今回は4人のチームであることに加えて、自分の体力も考慮すると厳しいことがわかっていたので、前日に峠の前までキャンプ地を上げることにした。しかし、峠の場所のずいぶん手前をキャンプ地にしてしまったようで、実際にはあまり効果はなかった。それでも、この日は晴天だったこともあり、キャンプ地からの展望は抜群によく、それなりに楽しめた。

しかし問題は次の日だった。かなり期待をしていたが、あいにくずっと曇りで雨や雹もぱらつき、ガスも広がり何も見えない。晴天だったら展望抜群のはずだったのに・・・、一日中何も見えないと感じた瞬間から苦行になった。特に、最後の1000m以上の下りは長くてきつかった。 

標高5000mの縦走は、残念ながらガスに包まれ、苦行の旅となった

 

落石音が鳴り響き、目標のルートは断念

一方、初めてのルートの中で思い出深く残ったのは、ムグ村から北上しタキャコーラを北西へ上がり、西へ横断予定だった地点だ。地元の人には、「その道は行けない」と言われていた。理由は、雨季で道が崩れていて、人は通れても馬が通れないからだという。さらに、地元の人でも薬草取りの人しか入らない、一般的な道ではないとも言われた。私は古道が好きなので見たかったのだが、馬が通れないのであれば私達の今回のチームでは無理となる。

GHT(グレートヒマラヤトレール)から外れているため、外国からのトレッカーはほとんど来ないのだろう。しかし、私の師匠である大西バラサーブは、過去に横断している。興味深いと思い、今回のルートとして予定していたのだが、これでは大幅にルート変更する必要がありそうだ。

残された日程を活用して時間のある限り精一杯歩けば、どうにか中国との国境ラインに行けるのではないだろうかと、毎夜テントの中で地図と睨めっこをした。結果、なんとか行ける可能性を見い出してチャレンジすることにした。スケジュール的にはギリギリとなるものの、なんとかゴールのララ湖に予定日に辿りつけるだろう、と。

国境前のキャンプ地に行く手前の峠から、国境方面を望む

この結果を最初に述べると、国境手前1km弱で残念ながら時間切れとなった。私の足が強ければ、あともう少し前進できたかもしれない、と考えると、正直、悔しかった。

しかし、前日の夕方から夜にかけて、落石の音が恐ろしいほど聞こえてきていた。当日の天候の悪さを考慮すると、前進は困難と判断した。付け加えれば、今回は私の個人遠征ではなくチームであることも考慮しなければならないこともあった。やはり最終的に選ぶべきはメンバー、スタッフ全員の安全だ。これまでの西ネパール遠征で、落石には何度も遭遇してきた。音がすれば落石に気づき逃げられる可能性はあるが、時には音もなく一瞬のうちに目の前に石が飛んでくる、小さな石から大きな石まで・・・。これを避けられるかどうかは「運」任せで、どうすることもできない。こうして、予定のルートの手前で、ゴールへと向かう決断をしたのだった。

*    *    *

こうした西ネパールの辺境地でのトレッキングは、キャンプ地が想定していた場所から変わることが多い。カッチャルのエサである草や水場などの条件により、予定した場所でテントを張るのが難しいことも多々ある。そのため予備日と、とにかく体力がいる。私は体力に自信があるわけでもないし、ましてや持病のリウマチのため常に右足首が痛い。あるものは、絶対歩いてやるぞという気力だけだ。

付け加えるなら、実は私はかなりの方向音痴である。それでも、行きたい場所について地図と睨めっこして妄想するのが好きで、地図から想像を膨らませて、現場で自分の想像と擦り合わせることが一つの楽しみとなっている。実際に現地にいくと、私の想像をはるかに超えていて、また別の興味深いところを発見したりすることもある。私はいつもそんなことをやりながら旅をしているので、この興味の探求にはゴールはないと最近感じ始めている。

今回の遠征でもおもしろい場所をいくつか発見した。それらは決して名前がついている山や谷ではない。なんでもない場所でも、自分にとってはおもしろそうと思ってしまう。こんな風に好奇心に任せてに行き続けていくと、納得するのに何歳までかかるのだろう? と考えている。それだけヒマラヤの懐は奥が深い。私はつくづく西ネパールの沼にはまったと感じつつ、今回の山旅を終えたのだった。

ゴールのララ湖に到着。目標の7割程度は果たすことができた遠征だった

最後に、この山旅中に9月20日を迎えたことに言及しておきたい。9月20日は、西ネパールを開拓し続けた師匠大西保氏の命日。その日に私が書いた日記を紹介して、今回の遠征ルポを締めくくりたい。

======9/20

今日は、大西バラサーブの命日!  
なんと、15年前にバラサーブと待ち合わせした場所、シランドール着!  
偶然は必然なり!  
やっぱりずっと見守ってくれてる、っていう事にしよ!

すごい偶然、偶然すぎてこわいぐらい。  
予定の変更、たくさんのアクシデント、日程は押しに押しまくっていた。  
それが、気がついたらドンピシャで命日に思い出の場所に着いた。  
なんなんだ?これは!!  
バラサーブからのなんのメッセージか。

なんなんだ? これは!!
さらに、この日の夜、夢を見た
15年前にシランドールで会った姿だ、声は なかった。
バラサーブからのなんのメッセージか。

「俺のこと忘れんなよ~」 or 「もっと西ネパール調べろ」!! かな~  
大西バラサーブのおかげで、西ネパールを歩けるようになった。  
本物の山旅を教えてくれた師匠、2014年に亡くなって今年で10周忌。  
バラサーブのことは、忘れることはない。

西ネパールに来ると偉大さをいつも感じる。  
今生きていたら、どこで何をしてるのだろうか~。  
お通夜の時、西ネパールに通い続けると誓ってから10年だ。  
約束守ってるよ。それだけは自信もって言える!

バラサーブにも今回出版したドルポの写真集見てほしかった。  
お通夜の日記  
https://denali6194.exblog.jp/22428139/

バラサーブ=ネパール語で隊長を意味する。

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はライフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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