“きゃきゃきゃ”…山の中から聞こえる子どもの笑い声【山怪】
山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。べストセラー山怪シリーズ『山怪 弐 山人が語る不思議な話』より一部抜粋して紹介します。
文=田中康弘
駆け巡る笑い声
神奈川県に広がる丹沢山系には毎年大勢の登山客が訪れる。またバーベキューや川遊びが楽しめる関東屈指の観光地でもある。都心部からのアクセスが良いことが最大の理由だ。しかし簡単に入山出来る割には地形は複雑で危険地帯も多く、それが遭難事故の多さに直結している。そのような丹沢山系東端で猟をする人たちに話を聞いた。
*
銃を所持する女性といえば、一昔前までクレー射撃をする人がほとんどだった。今は実猟で獲物を追う女性が全国的に増えている。厚木市街からほど近い東丹沢で鹿や猪を狙う羽石菜津美さんも、そんな逞しい女猟師の一人である。
「今年で免許取って六年目なんですよ。といっても最初の頃は銃を持たずに見学でしたけどね」
いきなり初心者を銃持参で猟場へ入れる訳にはいかない。やはり猟のやり方や地形など、まず覚えなければならないことがあるからだ。
「その時は他に一人見学者(男性)がいたんです。それで水の尻沢って所から山に入り、尾根道を歩いてタツマの後ろについたんです」
先輩猟師の後方で二人の見学者は静かに猟の始まりを待つ。どこから現れるか分からない獲物の影を期待しながら、ただじっとしていた。斜面を吹き上がる心地良い風、遠くから聞こえる鳥の声、そして鬱蒼とした森の中は、そこにいるだけで気持ちの良い空間である。
「見学者二人で静かに待っていたんですよ。そうしたら谷の右下のほうから人の声が聞こえてきたんです」
丹沢山系はごく普通の登山者も多く入る地域である。同じ道を猟師と登山者が続いて歩く姿はそう珍しくない。そのような地域で猟をするのは非常に神経を使うのである。羽石さんは状況を把握しようと声がする方向に耳を澄ませた。
「結構賑やかな感じでしたね。複数の子供の声がするんですよ、“きゃきゃきゃ”っていう感じでしたね。それに女の人の声もするんです。騒がしい子供たちを制するみたいな声で」
これはタツマに注意をしたほうが良いのかなと考えていると、妙なことが起きた。今まで谷の右下から聞こえていたはずの声が、突然左上方向から聞こえてきたのだ。えっと思い、顔を声の方向に向けると、やはり先ほどと同じように“きゃきゃきゃ”と賑やかな子供の声、そして女の人の声がする。
「いきなり違う所から聞こえておかしいなと思いましたよ。しばらくしたら今度はまた別の方向から聞こえるんです。よく聞いていると私の周りをその声がぐるぐる移動しているようでした。さすがにこれは道を歩いているモノじゃないなと……」
道を歩いて登ってくる人ならば注意をする必要があるが、そうでなければどうしようもない。羽石さんは周囲を動き回る謎の声を聞き流すことにした。そのうちに猟が始まると声のことは気にならなくなった。しかし猟が終わった後で、もう一人の見学者やタツマに付いた猟師に確認すると、
「声? いやそんなのは何も聞こえなかったなあ」
「鹿じゃないの、それ?」
あれほどはっきりと聞こえた不思議な笑い声も、彼らの耳にはまったく届いていなかったのである。
(本記事は、ヤマケイ文庫『山怪 弐』を一部抜粋したものです。)

山怪 弐 山人が語る不思議な話
| 著 | 田中康弘 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 880円(税込) |
プロフィール
田中康弘(たなか・やすひろ)
1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。
山怪シリーズ
現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。
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