熊野御幸の道・熊野古道紀伊路④藤原定家が「よじ登る」と記した藤白峠から拝ノ峠を越える
熊野御幸(くまのごこう)とも呼ばれる熊野詣(くまのもうで)は平安時代中期、宇多(うだ)上皇によって始まったとされており、その後、白河上皇、鳥羽上皇など上皇たちによって毎年繰り返され、活況を呈することになる。紀伊路(きいじ)はこの熊野御幸の道として利用され、江戸時代には武士・農民をはじめ一般庶民による熊野詣でが盛んに行われ、「蟻の熊野詣」と形容されるほどにぎわった。
写真・文=児嶋弘幸、トップ写真=拝ノ峠近くから下津湾を望む
前回はJR和歌山線布施屋(ほしや)駅をスタートし、矢田(やた)峠・汐見(しおみ)峠を越えてJR紀勢本線海南(かいなん)駅までのルートを紹介したが、今回は海南駅を出て、藤原定家(ふじわらのさだいえ、ていか)が『熊野御幸記』に「よじ登る」と評した藤白坂(ふじしろざか)から藤白峠を越え、さらに拝ノ峠を越えて紀伊宮原(きいみやはら)駅に至る区間を紹介しよう。
本コースの大半は舗装道歩きとなるが、藤白坂では古道歩きの雰囲気が味わえる。案内標識は充実しているので、ルート自体はわかりやすい。
海南駅から藤白峠へ
海南駅から紀勢本線の高架下の道を南下。内海(うつみ)小学校からすぐの四ツ辻を左折すると熊野一の鳥居跡となり、左より矢田峠・汐見峠からの熊野古道が合流する。三叉路を右に向かい、すぐの分岐を左へたどって、祓戸(はらえど)王子跡に立ち寄る。祓戸王子跡は、かつて心と体の汚れを祓い清めたとされたところだ。
もと来た道を戻りしばらく熊野古道を進むと、鈴木性のルーツといわれている鈴木屋敷があり、すぐに五体王子の一つ藤白神社に至る。藤白神社の境内を通り抜けると住宅地の一角に有間皇子(ありまのみこ)の歌碑と墓碑が建てられている。有間皇子は皇位継承の中、謀反をそそのかされ、厳しい尋問の末に、藤白坂で絞首された悲劇のプリンスとして知られている。
歌碑のかたわらには丁石地蔵の一丁目地蔵が祭られている。藤白坂の安全と「駕籠かき(駕籠をかついで人を運ぶ職の人のこと)」の料金を分りやすくするために、一丁ごとに地蔵を祭ったのが丁石地蔵の始まりとされるが、駕籠かきにとってはよほど気に入らなかったのだろうか、地蔵を谷へ蹴落としたともいわれている。その後、有志の手で復元された地蔵は、歩く人々の心を和ませている。
一丁目地蔵を後に、いよいよ藤白坂の登りにかかる。後鳥羽上皇のお供をした藤原定家は、ここ藤白坂について『熊野御幸記』に「よじ登る」と書き記している。比較的平坦地の多い区間を旅してきた都人にとっては、紀伊国に入って最初に出合ったこの藤白坂は、かなり険しい道として映ったようだ。
やがて筆捨松(ふですてまつ)に至る。画家、巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野権現の化身、童子と絵比べをした末に慢心を戒められ、絵筆を投げ捨てたという場所である。
藤原定家が「よじ登る」と記したと思える急坂を登り、藤白峠へ。着いた峠には一石造りの地蔵尊を祭る地蔵峰寺(じぞうぶじ)があり、裏手を少し登ると「この地、熊野第一の美景なり・・・」と評された御所の芝の展望地に着く。海南港から和歌浦(わかうら)、紀伊水道をはさんで四国方面までの大パノラマが広がり、すばらしい眺めだ。
プロフィール
児嶋弘幸(こじま・ひろゆき)
1953年和歌山県生まれ。20歳を過ぎた頃、山野の自然に魅了され、仲間と共にハイキングクラブを創立。春・夏・秋・冬のアルプスを経験後、ふるさとの山に傾注する。紀伊半島の山をライフワークとして、熊野古道・自然風景の写真撮影を行っている。 分県登山ガイド『和歌山県の山』『関西百名山地図帳』(山と溪谷社)、『山歩き安全マップ』(JTBパブリッシング)、山と高原地図『高野山・熊野古道』(昭文社)など多数あるほか、雑誌『山と溪谷』への寄稿も多い。2016年、大阪富士フォトサロンにて『悠久の熊野』写真展を開催。
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