第2回:昭和36年、富士登山の失敗と成功

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一万日連続登山を目指し、達成目前で力尽きた東浦奈良男さん。連続登山を始める以前から付けていた42冊にも及ぶ日記帳を確認すると、その生き様が目に浮かぶ。今回は、その雄大さに圧倒されながら、富士登山に初挑戦したようすを紐解く。

 

1冊目の日記の天に記された独自の歩く極意

奈良男さんが連続登山をはじめたのは昭和59(1984)年10月、日記では9冊目の途中からだった。それ以前は、印刷会社で働きながら日曜日を利用してあちこちの山へ登っていた。

今回紹介するのは、前回の初登山、乗鞍岳から約1年経った36歳の時に、休日を利用して、富士山に初めて登った記録だ。

 

昭和36(1961)年7月9日の日記より

富士山のぼる


初陣
9合目 もう一寸
御殿場口

いつものことながら初めての山は一寸した勇気がいる。手あたり(次第)に人にききつつ、のぼるも、五合目でフラフラと頭まよう。砂地に足がなれず、富士山はやはり大きいと身にしみる。七合目でまだ三時間のことばと、ごろごろずるずるの道にほとほと参ってしまい、雪渓をこしてゆくも、体は二つに折れたのであった。ついにあっさり断念。雲を食べて、悲しくも下る。団子か、腹へりか、威ばることができぬ、家での食膳の顔。なんとしても登る気で、次の日曜を待つ心の切なさよ。帰車中、みながうれしそうに杖の焼印を持っているのをみるとたまらなかった。それにしてもなんと高いことよ。

 

昭和36(1961)年7月16日の日記より

富士山のぼる


御殿場口
初登頂

一転二起、車中、ぐっすり眠れた。幸先よし。ゼッタイ顔を伏して頂上みるまでは、この意気馬子さんのうれしい言(葉)をあとに、さっさっと登り、休みは振りかえって麓を見しつつ、青年の激励あり、やっと顔を頂上にあげることができた。時計みず、顔あげず上方みず、これ吉。しかし、余力なく、鉢を少しまわって雲海の砂走り、ずんずんと早い下り。が、頂上をきわめぬ残念さ胸にわだかまり、よしこの次にこそ杖の印もと期す。なんと身も心もかるいことよ。
土地の人が今からでは夜八時ごろまでかかるといわれたのに、四時すぎに上って下りて物すごくうれしかった。

 

7月9日の山行では、五合目あたりで既に高山病になったのか「フラフラと頭まよう」と書いている。この後、富士山には生涯を通じて368回登ることになるのだが、まだまだ山に慣れていないようすが分かる。そして、九合目であえなく断念し、登山口へ戻っている。ぼくが奈良男さんに初めて会った81歳の時には、既に、「飲まず・食わず・休まず」の山行だったが、ここでは、登れなかったことを「団子か、腹へりか」とスタミナ不足を疑っている。

そして、7月16日には、予告通り、再び、自宅がある三重県の伊勢から出掛けてきて、同じ登山口から登り、登頂を果たしている。しかし、お鉢を回り切るまでの気力はなかったようだ。

「頂上をきわめぬ残念さ」の頂上は、最高峰の剣ヶ峰のことだろう。この年のシーズン中に、7月23日富士宮口、8月15日須走口から再び登り、お鉢も回っている。須走からの山行時は御来光を拝んでおり、

「太陽の点らぬ点らんとするほの暗さの雲海の色は例えようなし。黄金の一光を凍る瞳に印して雀躍*」

と記していて、初々しさが伺える。

*雀躍=小躍りして喜ぶこと。

注:日記の引用部は誤字脱字も含めて採録しますが、句読点を補い、意味の通じにくい部分は( )で最低限の説明を加えています。

 

『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』
著者 吉田 智彦
発売日 2013.06.14発売
基準価格 本体1,200円+税

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プロフィール

吉田 智彦(よしだ ともひこ)

人物や旅、自然、伝統文化などを中心に執筆、撮影を行う。自然と人の関係性や旅の根源を求め、北米北極圏をカヤックで巡り、スペインやチベット、日本各地の信仰の道を歩く。埼玉県北部に伝わる小鹿野歌舞伎の撮影に10年以上通う。2012年からは保養キャンプに福島から参加した母子のポートレートを撮影し、2018年から『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で写真展を開催。福島の母子の思いと現地の実状を伝えている。
Webサイト: tomohikoyoshida.net
ブログ:https://note.mu/soul_writer

奈良男日記 〜一万日連続登山に挑んだ男の山と人生の記録〜

定年退職した翌日から、一日も欠かさず山へ登り続けて一万日を目指した、東浦奈良男さん。達成目前の連続9738日で倒れ、2011年12月に死去した奈良男さんの51年にも及ぶ日記から、その生き様を紐解いていく。

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