第11回 喜びも悲しみも山へ。母の死

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一万日連続登山に挑み、達成寸前で他界した奈良男さん。今回は、前回から時代を遡り、連続登山開始前、奈良男さんを育てた母、みささんの葬儀があった日の記録を紹介する。

 

前回の「奈良男日記」:第10回 「いっておいない」の言葉が心に染みる。妻、かづさんの救急入院

 

昭和48(1973)年5月30日の日記より

五月三十日、式の日。どう思い直してみても、いうもきくも涙につながる。涙のつまった風船の如し。死顔はかわらぬ悲しみのカオ。灰となった母も、コシに痛みという。こけて折れていたのか。はずれていたか。はずれていたのなら、助かっていたはず。ついに気つかぬわがまぬけが母を死なしめたか。老衰とみきっていた盲点か。接骨師がよかったかもしれん。骨つぎにみてもらってれば助かっていたかもしれん。後悔先にたたずか。一寸の努力、せわをめんどうがり、母をころしたか。足が弱ったとばかりみていた失敗か。ええい、死んだ母を、子の年をかぞえても、しやない。死んだ子の年、すぎたことを、すんだことをほじくってもしょうないとしりつつも、己が母とならば、死んでもすぎても、いな、一生、数えつくしても、恩を忘れぬのだ。まだまだ母は死ぬようなはずはない、はずであった。それを死へ追いやった己れの浅はかなことばをにくむ。風呂をたいていたらよかったのだ。ビニールくそくらえ。ふろたきさえしていたら、こんなことはなかった。ああ、古い家で心がけれいたのに、ムネンムネン。ああ母は再びかえらず。それを思えば、即死したいユーワクにかられる。母の手足をもぎとった悲しさ、いきどおり、くやしさは死すとも忘れんぞ。これを何かの良因にせよ。片言隻語何するものぞ。数年の墓参りわれにありと思っても、一旦きくだけでクスリがきれたら元どおりの如く、悲しさくやしさは、不治の病気なり。母翔けし雲富士山頂にみるぞかし。

母翔けしあたり皐月の雲はるる。母消えて皐月の空の広さかな。鳴きつづく蝉の読経に母逝けり。薫風の早さ母焼くうす煙り。われ一代の大失敗をときもあろうに。母のサイゴを左右する大きなときにやらかした。ふろたきさえ母の役にしておけば、めったに参る母ではなかった。ああ、ふろふろ、ふろたき、かくもザンネン。そのつもりであったのに! オクド(お窯)をやめて、ふろたきがのこっていたのに。誰にもさせず母の役にしておかばよかったのだ。おれは大バカモノ。九仭の功を一キに欠いた。このふろたきが母をいのちを左右していた最大因とみた。これにちがいない。これさえしていておれば、万々才だったのだ。すれば、あとのいざこざはなかったろう。ふろたきこそ自主老衰死させたものだ。ビニールさえなかったら、ビニールのために死んだ母。ビニールにころされた母。ビニールをたいてはまたオクドの如くボロボロとなるは、みておれんために、たくなとなった。くやめばくやむ程、くやしい母の自主老衰死よ。くやむとは苦病むか。ふろたきが生死を決す悲しさよ。そのときその場で言ってして、忘れる母。澄むまで気の澄むまでものは考え、追究せよ。気が澄まんまま、おれるもんか。気の澄むまで母の死を追求しぬくぞ! 今はねる。日リンさんお月さん外宮さん内宮さん、氏神さんご先祖さん。──気の澄むまで母の死を追う涙かな。六月やなみだにまさる供養なし六月や涙にまさる供養なし。母の語を思い出しては涙かな。母のことば肝に銘じてその日まで。生きたるが死したるは時節到来。とくしとけ、電気消して、気のほうよう。気がすまん、いたい、いたい。これがサイゴのことば。イタイ、イタイ地虫鳴く涙にまさる供養なし。なみだ経。天津 祓詞 2拝 2拍 高天原に神留坐す。 神魯岐 神魯美の命以て皇御祖神伊邪那岐命。筑紫の日向の橘の小戸の、阿波岐原に、御そぎ祓へ給ひし時に生坐る。祓戸の大神等過犯しけん。諸々の枉事罪穢を、祓へ賜ひ清め賜へと申す事の由を、天津神国津神、八百萬の神等共に天の斑駒の耳振立て聞食せと恐み恐みも白す。
惟神祓給清給 惟神守給幸給

奈良男さんの母、みささんは、伊勢の出身で、夫の甚蔵さんと奈良男さんと共に、終戦直前の昭和20(1945)年6月に、それまで住んでいた大阪から引っ越してきた。翌年に甚蔵さんが他界。約10年後に奈良男さんがかづさんと結婚し、みささんが他界する約2ヶ月前には、かづさんのやりくりで新築の平屋が建てられ、入居していた。奈良男さんとかづさんは共働きだったため、子どもたちの世話や食事の用意はみささんが担っていた。

古い家では、みささんは薪を使って窯でご飯を炊いていた。しかし、新しい家ではガスが引かれ、みささんはその使い方になかなか馴染めないでいたという。日記の中に何度も出てくる「ビニール」とは、そんなある日、みささんが、七輪で鍋物を炊こうとして炭に火を入れたところ、誤ってビニールを入れてしまったことで、家中に黒い煙と異臭を充満させてしまった。奈良男さんは「危ないでやめろ!」と言って非常に腹を立て、それ以降、火を使うことを固く禁じた。それから、しばらくしてみささんの具合が悪くなり、寝たきりになって食欲をなくし、そのまま逝ってしまった。奈良男さんは、自分が生きがいを奪い取ったせいで母が死んでしまったと思い、窯を使わせないようにしたことを非常に悔やんだ。

「コシに痛み」とは、火葬した時に骨を見て、「骨折していたようだ」という話題が出たことによるもの。日記を見ると、亡くなった5月の上旬にみささんが転んだことが書かれており、奈良男さんはそれが原因で骨折していたのではないかと考えたらしい。しかし、娘さんによると、「その場に医者がいたわけでなく、正確なことは分からない」と言うことだった。その後に続く「死んだ子の年」とは、幼い頃に死に別れた兄姉のことだろうか。

奈良男さんは、山に登り続ける理由のひとつを、「償い」と言っていた。それは、生きがいを奪いみささんを死へ追いやってしまった(と思い込んでいる)自分への苛立ちであり、殴ってでも山に連れて行った結果、家を飛び出してしまった息子への申し訳なさであり、山へ登ることで自分が犯してしまったと感じている過ちを償おうとした。

喜びも悲しみも、全てを山に向けずにはいられなかったのだ。それが、奈良男さんが山へ向かう姿勢だった。

後半の「天津 祓詞 2拝 2拍」以降は、東浦家が代々信仰してきた神道の祓詞だ。

 

みささんの葬儀の記録が残る5冊目の表紙に、奈良男さんが書いた言葉。母を思ってつづったものだろうか

注:日記の引用部は誤字脱字も含めて採録しますが、句読点を補い、意味の通じにくい部分は( )で最低限の説明を加えています。

『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』
著者 吉田 智彦
発売日 2013.06.14発売
基準価格 本体1,200円+税

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プロフィール

吉田 智彦(よしだ ともひこ)

人物や旅、自然、伝統文化などを中心に執筆、撮影を行う。自然と人の関係性や旅の根源を求め、北米北極圏をカヤックで巡り、スペインやチベット、日本各地の信仰の道を歩く。埼玉県北部に伝わる小鹿野歌舞伎の撮影に10年以上通う。2012年からは保養キャンプに福島から参加した母子のポートレートを撮影し、2018年から『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で写真展を開催。福島の母子の思いと現地の実状を伝えている。
Webサイト: tomohikoyoshida.net
ブログ:https://note.mu/soul_writer

奈良男日記 〜一万日連続登山に挑んだ男の山と人生の記録〜

定年退職した翌日から、一日も欠かさず山へ登り続けて一万日を目指した、東浦奈良男さん。達成目前の連続9738日で倒れ、2011年12月に死去した奈良男さんの51年にも及ぶ日記から、その生き様を紐解いていく。

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