登頂後も豪雪に阻まれ停滞。帰りはメンバー全員で4日間のキャラバン

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登頂後の「あとは下山だけ」という楽勝ムードもつかの間、ベースキャンプで季節はずれの大雪に阻まれ3日間の停滞。最後に山の厳しさを教えてくれたヒマラヤの神に感謝しつつ、帰途につく。

 

季節外れの大雪に阻まれ・・・3日後にようやくベースキャンプを脱出

Date 2013年10月16日(水)


10月11日の登頂成功日以降、しばらくブログの更新が途絶えてしまいましたが、これには深い理由がありました。C2から一気に下り着いたベースキャンプ(BC)で、季節はずれの大雪に遭遇。ブロークン氷河の出口付近の岩稜と、トラバース斜面の雪崩が危険すぎるために脱出することもできず、そしてソーラーバッテリーも充電不可、といった状況で、標高5200mのBCにずっと足止めされていたのです。

この季節、1m以上の積雪があることはきわめて稀であるらしく、ガイド経験の長いサーダーのツルさんにしても、約20年前にパンガで起きた雪崩遭難のとき以来だとのこと。テントが埋まりゆく光景を眺めながら、私たち隊員たちもテントの除雪以外になすすべなく、停滞の日々を送っていました。

10月12日、C2、C1を次々に撤収してBCに向かう。青空はこの日の午後から4日間、姿を見せなかった。今、思えば、背後の雲の動きがあまりにも急だった


豪雪に閉じ込められたベースキャンプ。除雪しながら過ごすのが精一杯の日々が3日、続いた


天候回復のきざしが見えはじめた10月15日午前11時、一瞬の青空を確認してから脱出を決行。1m以上の積雪に足をとられながら、通常、ポーターたちが2時間で下っていた斜面を8時間半かけて、ようやくロナークに到着することができました。もちろん、この日は登頂日以来のヘッドランプ行動。ブロークン氷河のゴルジュ帯を抜け出すころには、ウェッジピークの山端から現われた月が広い河原を煌々と照らしていました。


ブロークン氷河の最後の下降。雪の穂高並みの困難な岩場を、最低限の装備だけで下降した


ともあれ、なんとか安全地帯に出ることができて、隊長としてはホッとひと息。ロナークからは一般トレッカーが行き来するエリアになります。

登頂後の「あとは下山だけ」という楽勝ムードに対して、冷や水どころか強烈な豪雪をもって最後に山の厳しさを教えてくれたヒマラヤの神に感謝。なにしろ、この雪が1週間早くやってきたら、登頂計画そのものも完全に埋もれ去ってしまったことでしょうからね。

この停滞のために帰国予定が数日、延びそうですが、1カ月以上、共に過ごした仲間たちとのバックキャラバンを、もう少しだけ一緒に楽しみたいと思います。

 

バックキャラバン開始。標高約3600mでも酸素の濃さを感じる

Date 2013年10月21日(月)


10月17日、雪に閉ざされたロナークを後にして、トレッキングコースの2日分を歩き通し、ヘリコプターでの入山地、グンサ(標高約3600m)に到着しました。

途中、雪が深かったために予想以上に時間をとられ、途中でヘッドランプ行動となってしまい、グンサのロッジに着いたのは19時過ぎ。11時間連続行動のロングランでした。しかし、一気に1200m近く高度を下げたために体調は万全。カラマツの黄葉を愛で、足の裏に土の感触を楽しみながら、雪と氷の世界から無事に下界に下りることができたことをしみじみと実感しています。

月が隠れたあと、深夜に撮影したロナークの星空


ロナークのキャンプ地で出発前に全員集合。だれが隊員かわかりますか?


隊員たちにとっては、富士山頂上よりも高いところで約1カ月以上生活していたことになるわけで(標高5000m以上ではちょうど3週間、過ごしていました)、ここでもまだ富士山頂ほどの高さであるにもかかわらず、酸素の濃さを強く感じられます。例えるならば、酸素のぬるま湯に浸かっているという印象でしょうか。ちなみに私のSpO2の値は96。ほぼ下界並みの数値に落ち着いています。

今後の予定ですが、迎えのヘリの都合がつかなくなったため、全員でバックキャラバンをすることに決定。タプレジェンまで、登りで6日かかったところを4日間で下山します。タプレジェンからは貸切バス2日の旅で、カトマンズには23日深夜に到着予定。翌日は政府観光局ほか、各方面に登頂報告や装備のチェックのために過ごし、25日カトマンズ発の便にて帰国の予定です。

ここ、アムジラッサは唯一、南の空が開けていて衛星が拾えますが、明日以降、またしばらく深い谷の中のキャラバンにつき連絡が途絶えるかもしれません。登頂の詳細などについては、またあらためて紹介しようと思いますので、ご期待のほど、どうぞよろしくお願いします。


下山途中、タプレジェンの丘から見たジャヌー北壁。やっぱり気になる山だ

 

バックキャラバン最終日は「炎の料理人」のダルバート料理の食べおさめの日

Date 2013年10月22日(火)


さすがに7000m峰、それもネパールの東の端の山となると、帰りも楽ではありません。行きは村上隊員とともにチャーター・ヘリでカトマンズから直接、標高3600mのグンサに入山しましたが、帰りは他のメンバーたちとともに、正しく徒歩にて下山。今日で3日目、60kmほど歩き通して、バスの待つタプレジェン手前のミトゥルングに到着しました。

一昨日はアムジラッサ、昨日はタペトク。グンサ・コーラの深い峡谷に沿って標高を下げ続け、ここ、ミトゥルングは標高約900m。ということは、アウトライアー東峰山頂から、じつに標高差6000mを下山してきたことになるわけですね・・・。下山距離の積算は80kmくらいになります。

グンサ・コーラの激流に沿って下山する


風雪に閉じ込められたBCからはじまり、カラマツの黄葉が美しいグンサ周辺(標高3600m)を経て、セミがやかましく鳴き、バナナを実らせた村をたどって晩夏の集落へ・・・。今、ミトゥルング集落のはずれに設置したテントサイトでは、バラサーブ専用のディレクター・チェアに腰掛け、夕焼け雲を眺めながら、半袖シャツ一枚でPCに向かっています。羽毛服の完全装備で吹雪と戦っていた1週間前のBC生活が、まるで幻のよう。日暮れとともに、草叢からはコオロギとクツワムシの(ネパール語風の?)鳴き声が聞こえてきました。

隊員は全員、きわめて体調良好で、各々、ネパール側スタッフと談笑しながら、キャラバン最後の夜を楽しんでいます。今宵は「炎の料理人」ジャガティスのダルバート料理の食べおさめの日。今日も新鮮な(!)チキンを手に入れたらしく、自信たっぷりの表情で調理を楽しんでいるように見受けられました。そろそろいつものコール、「バラサーブ、ディナーレディ」の声が聞こえてくることでしょう。

若者たちの胃袋の暴走は誰も止められない。夕食後、食べたりないと、ついにキッチンに乱入してダルバートのお代わりを要求していた。もちろん食事はスプーンでなくネパール流に右手だけで……。


それではバックキャラバン最後の夕食を楽しんできます。

また明日(うまく通信環境が整ったら・・・)、連絡しますね。

下界に近づくにつれて文明の飲料がたやすく手に入ることは困ったことでもある。学生ふたりは未成年ということもあって、大人の麦味発砲飲料はお付き合いで封印。その代わりに、休憩のたびに要求されたのが「No coke, No walk!」

⇒次号/43日間の遠征を経て帰国の途へ――。日本で待っていたものは?

プロフィール

萩原浩司(はぎわら・ひろし)

1960年栃木県生まれ。青山学院法学部・山岳部 卒。
大学卒業と同時に山と溪谷社に入社。『skier』副編集長などを経て、月刊誌『山と溪谷』、クライミング専門誌『ROCK&SNOW』編集長を務めた。
2013年、自身が隊長を務めた青山学院大学山岳部登山隊で、ネパール・ヒマラヤの未踏峰「アウトライアー(現地名:ジャナク・チュリ/標高7,090m)」東峰に初登頂。2010年より日本山岳会「山の日」制定プロジェクトの一員として「山の日」制定に尽力。
著書に『萩原編集長危機一髪! 今だから話せる遭難未遂と教訓』、『萩原編集長の山塾 写真で読む山の名著』、『萩原編集長の山塾 実践! 登山入門』など。共著に『日本のクラシックルート』『萩原編集長の山塾 秒速!山ごはん』などがある。

アウトライヤー 萩原編集長のヒマラヤ未踏峰挑戦記

NHKの「実践! にっぽん百名山」の解説などでおなじみ、萩原編集長こと萩原浩司氏は、2013年秋、ネパール・ヒマラヤ未踏峰、「アウトライアー(現地名=ジャナク・チュリ)」を目指した。 母校である青山学院大学の山岳部のOB会長も務める萩原氏は、自ら総隊長としてこの遠征隊に参加、その準備から登頂、そして帰国までを萩原氏の目を通しながら伝えていく。

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