凪のように寄り添う時間 『炉辺の風おと』【書評】

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評者=華恵

炉辺の風おと

著:梨木香歩
発行:毎日新聞出版
価格:1600円+税

 

梨木さんが山小屋を買うところから、エッセイは始まる。家の建築の話、暖炉の火のおこし方、そして山小屋の周りのリスの観察など。

ずいぶん静かな本だ。最初に読んだ時、そう感じた。2回目に読んだのは、仕事で失敗して落ち込んだ日だった。

忘れものはする、仕事場所を間違えて遅刻、ナレーション収録では何回も間違えて録り直し。空回りばかりで、がっくり落ち込んで、帰宅したその日。

ふぅと息をついて本を開くと、逃避行できる先が、この本の中にあった。「人」のことより、家や、火、薪、植物や動物の話が続くことに救われた。

梨木さん自身、こう書いている。

都会で所用を「聖徳太子的に同時にこなした後、八ヶ岳に来ると、しばらく動けなくなることがある。時間が止まる。」

常にメディアの情報をチェックし、「ニューノーマル」の日々に追われる今、ピタッと、凪のように止まる時空間は、きっと誰にとっても必要だ。

そうして、自分の大切なものが、すっと浮かび上がってくることもある。

梨木さんは、長く使えるものに惹かれる。とくに、「シンプルでうつくしいものに。さもなければ、土に還ってくれるものがいい」。気に入った本棚が見つからなければ、なんとダンボールを愛用する。

分かるー。天を仰いでつぶやいた。

コロナ禍、私は世間の流れと同じように、家時間を見直し、部屋の模様替えをし、家具や家電の見直しを始めた。

その時、迷ったのが机。150センチもある横幅。中学生の頃、刑務作業品展で母に買ってもらった。分厚い一枚板で、仕上がりも丁寧。15年ほど使っていても、木屑が引き出しの奥に落ちていたことは一度もない。

ただ、今の家には、大きすぎる。これが問題。

友人に話すと、「サイズが合わないなら、仕方ないよ。邪魔かもって、一ミリでも思った時が、処分の時だよ」

バッサリ斬るように言われた。なるほどそっか、なんて調子よくいいながら、処分の決心はまだつかなかった。

梨木さんは現代の、再生不能のものや使い捨てのものに溢れすぎた世の中を憂い、長く付き合える大切な家具の愛おしさを語る。それを読んでいて、ぽっと思い浮かんだのが、机。

まるで心理テストをするみたいに。私なら、これ、と。

大きくても、この机を中心に、部屋を再構成してみよう。そう決心して久しぶりに物をおろし、上をウエットティッシュで拭くと、驚くほどホコリがとれた。

梨木さんの小屋がある八ヶ岳の麓に、ワープしたような気持ちで読んでいくと、自分の奥底で、埋もれてしまいそうになっていた芯が、不思議と浮かび上がってくる。

そういえば、梨木さんは、この本の中で、ずっと一人だ。

小屋で、火をおこし、資料の本に没頭する時も、植物や動物を見つめて人間界のことを思う時も。昔、英国で世話になった家の女主人の話や、亡くなったお父さんの話、病院の先生や看護師の話も出てくるけど、そのエピソードも、思い返されるように書かれている。言葉は、あくまで梨木さんの心の中に浮かんだ、非常に内省的なもの。だけど、決して寂しくはない。「命の火」を絶やさずに。自分の体と気持ちに耳を澄まし、感覚を広げてみる。そこから、キリッと目を覚まして世界を見つめ直す。それは、一人だからできること。そして、それが、生きること。

静かなのに、強い訴えがあるのだ。

 

評者=華恵

1991年、アメリカ生まれ。エッセイスト、モデルとして小学生時代から活動し、同時に登山も始め、アウトドアに関するエッセイを多数執筆。ラジオパーソナリティーやナレーターとしてもレギュラー番組を持つ。著書に『華恵、山に行く。』(山と溪谷社)ほか ​​​

山と溪谷2020年12月号より転載)

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