クライマーの魂をえがく『OLD BUT GOLD』

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評者=松原尚之

OLD BUT GOLD

著:杉野 保
発行:山と溪谷社
価格:2200円+税

 

杉野保といえば、トラッド、スポート、ボルダーからビッグウォールまで、オールラウンドなクライミング分野で長きにわたり活躍してきた日本を代表するクライマーの一人である。彼が世代を超えて多くのクライマーに影響を与え、尊敬を集めてきたのは、そのクライミングの実力と人柄もさることながら、クライミングの本質やあるべき姿を誰よりも正しく理解し、それを文章で表現できる稀有な存在であったからだ。

「クライミングの本質の伝道者」「文章で人を動かすことのできる唯一のクライマー」……。そうした杉野への評価を確固たるものにする上で決定的な役割を果たしたのが、2003年から2009年にかけて『ROCK&SNOW』誌に連載されたこの「OLD BUT GOLD」であった。杉野が30代後半から40代半ばに向かう時期だった。

「久しくチョーク跡の途絶えたルートに、再び息を吹き込むのだ」。そんなテーマで始まったこの連載が高く評価された理由はいくつもあるが、まず文章が何よりすばらしかったこと。そして取り上げたルートが有する歴史的意味や時代背景をきちんと説明していたこと。しかも杉野には、再登者さえほとんどいない困難なルートに実際にトライできるだけの、クライマーとして日本トップクラスの実力があり、そのルートの難しさやクオリティーを自らの体験を通して語ることができた。それがなければこの連載で紹介された不遇なルートの数々が、その後人気ルートへと変貌を遂げることもなかっただろう。飯山健治のすばらしい写真も忘れてはならない。けれどもこの連載が私たちクライマーの心を揺さぶった最大の理由は、クライミングルートを取り上げながら、実はそのルートを初登した人物を描くことに一番の重きがおかれていたからだ。

杉野によって選ばれたルートの初登者たちは、一本のルートを登るために常人には理解し難いほどの情熱を傾け、人生の少なからざる部分を―人によってはすべてを、クライミングに注ぎ込んだ人物ばかりである。いや杉野は、そのような“本物の”クライマーが初登したルートしか、この連載で選ばなかったのである。そして言うまでもなく、杉野もまたそんな真のクライマーの一人だった。

埋もれた名ルートを発掘するという試みは、時の移ろいとともに忘れ去られようとしていたあの時代のクライマーたちの生き様をも、再び世に示してくれることになった。時代を背負い、若さに突き動かされ、何よりフリークライミングという行為に魅せられて、彼らは一本のルートに自らの魂のかけらを刻み込んだ。彼らのその熱こそ、この作品が私たちの胸に迫る何よりの源なのである。杉野が本当に書きたかったのはルートではなく、そのルートに宿った、決して消えることのないクライマーの魂だったのだと思う。

彼らは彼らが初登した一本のルートによって、現代のクライマーにクライミングの厳しさや豊かさを伝えてくれる。そればかりかクライミングの本質やあるべき姿を問いかけ、「君たちはクライマーとしてどう生きるのか?」といった大きな命題さえも突きつけてくるのである。

「世のクライマーたちは登るべきルートを間違えているのかもしれない」

杉野が紡ぎ出したわずか1行のそんな言葉に、どれほど多くのクライマーが影響を受け、そしてこれからも受け続けることだろう。

杉野保は2020年3月、ホームゲレンデの城ヶ崎で還らぬ人となった。その死はあまりにも唐突で、早すぎた。しかし、その人生はまぎれもなくGOLDで、幸福なものではなかったろうか。

 

評者=松原尚之

1965年、東京生まれ。日本山岳ガイド協会認定山岳ガイドⅡ。ミズノ・アドバイザリースタッフ。法政大学山岳部OB。南極やグリーンランドのような極地から、K2やマカルーなどの高峰登山、国内マルチピッチの開拓まで幅広く活動を続ける。 ​​​

山と溪谷2021年1月号より転載)

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