ヒマラヤ遠征隊 裏話と回想録『追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録一九七〇』
評者=成川隆顕
「あのマカルーから、今年でちょうど五〇年。(中略)これらの思い出を、まだ記憶の鮮明なうちに活字に残しておきたくなった」─。第1部「マカルー一九七〇」は、今年78歳になった尾上さんの回想録である。単なる追憶の感傷でなく苦労話でもない。公式な報告書、記録には残っていない何かを納得のいくまでつづりたかったということだろう。尾上さんが何を書き残そうとしたのか。それらに思いを寄せながら読むことをお勧めしたい。
日本人初の8000メートル峰マナスル登頂は1956年。以降、わが国の登山界は高所登山ブームに沸いていた。そんななかでヒマラヤの魅力的な未踏峰ローツェ・シャールをめぐって日本山岳会東海支部と早稲田大学隊がネパール政府の登山許可を争ったことがある。
日本山岳会本部の裁定で早稲田隊が選ばれ、東海支部は目標変更を余儀なくされる。東海支部の無念さと本部への憤りがエネルギーになって、マカルー登山に集中し、生々しい人間模様が描かれることになる(早稲田隊は成川の遭難事故で登頂に失敗した)。
8463メートルのマカルー東南稜はカリスマ的なリーダー原真のもと、トレーニングや、なんと歌の合唱などユニークなアイデアや新鮮な手法でチームを作り上げ、「武闘集団」のような気迫でピンチを切り抜け、未踏の難ルートからの登頂に成功する。登山許可の競合から数えて8年。関係者の確執や葛藤、あわや遭難かという危機を乗り越えた若者たちの、裏話を織り込んだ展開が興味深い。
マカルー登山は同じ年の1970年に行なわれた日本山岳会(本部)のエベレスト日本人初登頂と比較されることが多いが、その内容は、ヒマラヤにバリエーション時代の到来を告げる画期的な成果として高い評価を受けた。
ただし、中枢メンバーとして活躍が期待された尾上さんは体調不良で早々と最前線を離脱し、支援の裏方に回ることとなった。黒子に徹して登山隊を支え目標達成に貢献した。そして「この時の体験は私の長い人生そのものを示唆するものだった」と述懐する。2006年のローツェ南壁冬期初完登では総隊長として後輩たちに信頼され、日本山岳会の会長として4年間、組織運営に手腕を発揮した。
第2部は「私と山、若き冒険の日々と山岳会」のタイトルで括られている。
冒頭にマカルーに先立って参加した母校日本大学山岳部のグリーンランド紀行が採録されている。22歳の尾上さん、海外遠征のスタートである。気心の知れた山岳部の仲間たちと白夜の世界に橇を曳き、氷床上にそびえる山々に登る。一緒に登りたくなるような楽しい日々がつづられている。
マカルー登山の後、東海支部では34歳で支部長に推され、40隊もの海外登山隊を送り出して活動を盛り上げる。若者を育て登山愛好者を惹きつけた。力量を買われて東海地区では初めて日本山岳会の会長となる。
私が尾上さんと親しく付き合うようになったのはそれからだ。会長として掲げた課題の一つに国民の祝日「山の日」の制定があった。「山の日」づくりは前任の宮下秀樹さんからの引き継ぎ事項で、尾上さんと一緒に祝日制定の旗を振った。ローツェ・シャール登山許可で争い、50年の年を経て奇しくも一緒に仕事をする縁で結ばれていたことになる。
尾上さんは「あとがき」に、本書は遺書のつもりで書いたと記している。しかし、遺書なら幾らでも書き足せる。ますますのご活躍を期待したい。
静かで穏やかな山も存分に楽しんでほしい。
評者=成川隆顕
1937年、神戸市生まれ。早稲田大学山岳部OB。新聞記者として働いた後、65年にローツェ・シャール登山隊に参加。以降テレビ局で報道に携わる。2007年から4年間、日本山岳会常務理事。国民の祝日「山の日」制定プロジェクトを担当。全国山の日協議会会員。稲門山岳会幹事。
(山と溪谷2021年4月号より転載)
登る前にも後にも読みたい「山の本」
山に関する新刊の書評を中心に、山好きに聞いたとっておきもご紹介。
こちらの連載もおすすめ
編集部おすすめ記事

- 道具・装備
- はじめての登山装備
【初心者向け】チェーンスパイクの基礎知識。軽アイゼンとの違いは? 雪山にはどこまで使える?

- 道具・装備
「ただのインナーとは違う」圧倒的な温かさと品質! 冬の低山・雪山で大活躍の最強ベースレイヤー13選

- コースガイド
- 下山メシのよろこび
丹沢・シダンゴ山でのんびり低山歩き。昭和レトロな食堂で「ザクッ、じゅわー」な定食を味わう

- コースガイド
- 読者レポート
初冬の高尾山を独り占め。のんびり低山ハイクを楽しむ

- その他
山仲間にグルメを贈ろう! 2025年のおすすめプレゼント&ギフト5選

- その他
