慧海の「チベット旅行記」には敢えて記されていないツァルカ村から先、越境への核心部へ――

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約100年前にチベットを旅した僧侶・河口慧海の足跡をたどり、さらにドルポ内部へと旅を続ける稲葉香さん。今回のルポで紹介しているツァルカ村から先は、河口慧海の『チベット旅行記』には、詳細が記されていないが、のちに発見された日記によって明らかになった箇所である。

 

いよいよドルポの入り口となるツァルカ村に到着するのだが、その前に記載しておきたいことがある。何故かといえば、この時代(2004年)になってから、慧海日記の一部が発見=公開されたからだ。しかもそれは、今までになかった核心部の重大なポイントだったのである。

★前回記事:疲労困憊でたどり着いた野営地は100年前の慧海と同じ場所だった!?

従来のチベット旅行記(全5巻・講談社文庫)は、慧海が帰国直後に語った2つの新聞の連載に基づいている。その中では、ツァルカ村から先については「これは略します」と書かれ、日付や地名もなく詳しく書かれていない。それが、2004年の秋、今までになかった1900年(明治33年3月10日から12月31日までの分で、ネパールのムスタン地方からドルポ地を経てチベットに密入国し、西チベットのマナサロワール湖とカイラス山を巡礼して、シガチェとラサの中間地点に到達するまで)の慧海の行動が記録されている日記が、慧海の姪である故宮田恵美氏の自宅で発見されて解明さることになったのだ。

私はこの新聞記事を目にした瞬間を、鮮明に覚えている。というのも、私が慧海ルートを歩みだして2年目で、ちょうどネパールから帰国した時だったからだ。ちなみにその新聞の切り抜きは今でも持っている。

この日記が発見されたことにより、今まで隠されていた、「どこの峠を超えてチベットに入ったのか」が一気にリアルになった。そして、登山家・作家・学者などが集まり河口慧海研究プロジェクトが立ち上がり、そのメンバーによって日記の解析・整理などが行われた。それらをまとめたものが、河口慧海日記(講談社学術文庫・奥山直司編)として2007年5月に発行されている。私は単に慧海ファンの一人として、「100年前の話なのに、今、2007年に解明されるとはチベットの埋蔵経のようだ感じ、すごく面白い」と思った記憶が残っている。

ところで、何故、慧海がその地域について詳しく書かなかったのだろうか? それは、当時はチベットは鎖国時代だったので、慧海が現地人になりすまして密入国を計画し国境地帯を突破するなか、途中で彼を助けてくれた現地の人がいたがその人々に迷惑がかからないように配慮からであった。

北上して、いよいよツァルカ村(CHHARKA BHOT)へ!

 

9/14.    キャンプ地 ~ ツァルカ

朝、5時半ごろまでは雲がどんよりしていたが、朝食を終えていざ出発の頃にはスッキリした快晴の中で出発した。今日は、途中からカンテガ峰(6060m)が見えるはずだ。“カンテガ”という山はクーンブ地方にもあるが、ドルポにも同じ名前の山がある。慧海師はこれを東に三尊峰と命名したが、その位置は正確には東南32kmで、パンザンコーラ側からはカンテガ峰と呼ばれており、裏側の南側のモー・ラからはチャマール・カンと呼ぶようだ。

遠方にカンテガ峰(6060m)を望みながら旅程を進める


タザンコーラ沿いには褶曲した山肌が続き、この時期ピンクの小さなお花畑となる。イブキトラノオ属の一種(タデ科)周囲を見渡せる緩やかな山道のアップダウンが続く中、このあたりはチベット旅行記には、ナーという鹿・雪豹・ヤク・犬などの猛獣がいると書かれている。私が通った時もナー鹿と馬とマーモットを見ることができた。

ピンク色の花が山肌を染める。イブキトラノオ属の一種のようだ
 

山道を歩いていると、マーモットの姿を見ることが出来る


5714m地点の左岸岩壁に来ると、西にカンテガ峰 6060m 東壁の頭が見える。この山は、私にとって思い出深いものだ。故大西保氏に連れてきてもらい、初めてのドルポ入りを果たした2007年、このカンテガ未踏峰登攀の予定があり、「私も登りたい」の一言で大西隊長は登攀メンバーに入れてくれた。そして、第1次隊が初登攀に成功した次の日、私は贅沢にも第2次隊で登頂することが出来た。ここからは東壁が見えていたが、登攀したのは北壁だった。貴重な経験をさせて頂いた思い出が蘇り記念撮影だけして先を急ぐ。

思い出が残るカンテガ未踏峰をバックに記念撮影して先を急ぐ筆者


どんどん進むと、ツァルカツゥルシーコーラとタザンコーラの手前にケルンがあった。そこから、ツァルカ方面を遠くにみると、意識しないとわからないほど小さい白い建物が見えた。私はツァルカが見えたのだと思った。やがて川の出合にたどり着くと河岸段丘の真下に大きくて立派な橋がかかっていた。

慧海の時代は「靴を脱いで渡る」と書かれていた場所には、立派な橋がかかっていた


慧海の時代、ここには小さな橋がかかっており、荷物を下ろし靴を脱いで渡ると書かれていた。その河原で米を煮て食べようとしているとき、一人のサドゥー(ヒンドゥー教の行者)に会ったと記されている。慧海は彼に米を与えて、「これより上に登ると、非常に寒いので注意せよ」と忠告すると、彼は天を指差し「わが命は神にあり」と言い残し、ムクチナートへ向かって去って行ったという。

南方に巨大な岩壁があり、そこから五条の滝が落ちていたため、慧海はこれを五龍の滝と命名している。私が行った時はその岩壁はわかったが滝を見つけることは出来なかった。その年は滝が枯れていたのだろうか。

慧海が訪れた際には五条の滝が落ちていたという岸壁。残念ながら滝は枯れていたようだ


ツァルカ村に到着する手前からは守り神のようにマニ石が、川沿いずらっ〜と敷き詰めらるように長く続いている。そして、遠くにツァルカ村が見えてくる。ドルポの東の玄関口の村にいよいよ到着である。このマニ石が長ければ長いほど、その地域の信仰が厚いそうだ。

「マニ石」が敷き詰められた川沿いの道を進む
 

*     *     *

昼食後に早速、村内の見学に向かった。このツァルカ村は、実は日本人にとって馴染み深い村なのだ。慧海の研究者である故高山龍三氏が若い頃参加していた1958年の西北ネパール学術探検隊(故川喜田ニ郎氏が隊長)が3ヶ月に渡り調査している。その記録が残っているのため、当時のことを見たり聞いたり出来ていたため、この村に来るといろいろ想像が出来てグッと近く感じられた。

いよいよ、ツァルカ村へ。石造りの家が立ち並んでいる


ちなみに、ツァルカ村は、エリック・ヴァリ監督の映画「キャラバン」(1999年日本公開)のロケ地となった場所として、近年では知られるようになっている。

以前訪れた時に、故 大西保氏に教えてもらったポイントからツァルカの全貌を撮影しようと小高い山を登りはじめた。途中ですれ違った人に話かけると、その人は偶然にも22年前まで、対岸にある今は廃寺となっている寺院に住んでいた人だった。話を聞かせてもらうと、川を渡る時、当時は綱渡りで渡っていたのだという。私はツァルカに来て4回目にして、記録で見聞していた綱渡りをしていた人に出会えたことにすごく感動した。

丘から望むツァルカ村の全貌。絵葉書のように美しい風景が広がる


彼は15歳の頃から綱渡りをして、ロープをつたって対岸のお寺に行き毎日プジャをしていたという。今は、この綱渡りが危険な上に事故もあったので、お寺は30年前に新しい場所に移動したという。それより前の300年前までは山の上にあったとも話てくれた。また、ここでは仏教よりもポン教徒が多く「もうすぐ祭りだよ」とも教えてくれた。祭りとは毎年収穫の前にやっているものらしい。

このツァルカはさらにドルポ内部へと向かうための場所であり、慧海にとってはしばし休息するための場所でもあった。慧海によると、ここツァルカでポン教徒がいて、ラマの家に逗留しているとも記している。そこで経典を借りて4時間ほど読んで、案内人を解雇したとも記している。

なお、ツァルカまでの案内人を変えたことが明らかになったのは、2004年に慧海日記が発見されたからであった。日記によると、案内人からは、この先に行くのを非常に強く止められていたが、慧海の気持ちは揺るがなかったとしている。

1958年の西北ネパール学術探検隊(故川喜田ニ郎氏が隊長)が3ヶ月に渡り調査された記録が映画「秘境ヒマラヤ」の作品となっており、その映画に使われていたお面を見せてくれたポン教の僧侶と記念撮影


ツァルカまでの案内人を変えたことが明らかになったのは、慧海日記が発見されたからであった。チベット旅行記と河口慧海日記では、記述されている内容が、微妙に違っている。さらにややこしいのが、チベット旅行記は改正版が1941年に出ており、このようなツァルカに到着した日にちが違っていたり、具体的な記述が増えてたりいる。

例えば、この部分である。

『二日間逗留してからドルポ、セーの霊場を周りに行きました。この霊場の間には景色の佳い処も沢山あり、また仏のやうな姿をして居る天然の岩もありその他珍しい植物や動物も沢山見ました。ちょうど吾国の妙義山を広大にした様な山で石門も天空に駆ける様に見える岩も見えます』

この記述によって、ドルポの聖山・シェー(水晶山・5576m)を巡礼したことが確実になったわけだ。また、慧海はドルポを郡名、ツァルカを集落と正しく認識しているところや、案内人を変えてたこと、さらに到着した日にちは6月20日であったことが記述からわかっている。

ツァルカ村から、さらに北上してティンキュー(tinjegoon)へ

 

9/15 ツァルカ ~ モーラ(5035m) ~ キャンプ (4664m) 

ツァルカから北西約10kmにモー・ラ(5027m/峠)という場所がある。慧海は「是れドーラ・ギリなり」と記載してるが、故大西保氏は峠の手前で見えるのは、ダウラギリⅡとその西の峰であると断定している。私がモー・ラを超えた時は、雲が少しかかっている中から撮影した際に、西の峰らしい雪山が見えていた。

モー・ラ(5027m)から、ダウラギリⅡ方面を望むが、雲でよく確認できなかった


このモー・ラを越えてメガネ池を通過したが、池の一つが枯れていたために分からず、一度は通りすぎてしまったが。しかし、初めてこの場所を訪れた時(2007年)のことを思い出して振り帰ると、自分がメガネ池の中央にいることがわかった。メガネ池全体が見渡せるところまで引き返して良く見てみると、その様子がよくわかった。

メガネ池。水が枯れていて一度は通り過ぎてしまった・・・


ダサイン(ネパール最大のお祭り)のために中国からヤギを連れて地元の人々が大移動していた。この時期は、いつもそんな様子が確認できるという。

ヤギの大移動の様子。ダサインの時期は、いつもこんな様子だという

 

9/16 キャンプ ~ カジャン ~ キャンプ(4342m) 

この日は2回の渡渉がある行程だ。そのうち2回目となるカジャン付近での渡渉は、水は痛いほど冷たかった。さらに「水多く橋なし」と、100年前の慧海と同じことを感じた。そして慧海の言うとおり、京都の茶畑のような植生が100年後の今も変わらない姿が広がっていたのだった。

前日と同じく、次から次へとヤギの大移動とすれちがった。ヤギは、カトマンズやポカラまで連れていかれると聞いた。今までダサインで見てきたヤギがドルポを横断してカトマンズのような都会まで辿りついているとは、驚きでもあった。

茶畑のような風景が広がる。100年前も、こんな様子だったようだ

 

9/17 キャンプ ~ ティンキュー(4110m) 

ティンキュー手前で日本のコマツのブルドーザーを発見! 車はネパール内部からはここまで入っていることは不可能だが、チベット国境からは車での往来が可能になっていることがわかった。チベット側は、国境峠を越えると高原になっていて、車道は比較的作りやすい。そのため、どんどん作られていることが想像できる。

クーラカン(聖なる山)が見えてきた。ティンキューが近づいてきた


さらに、ティンキューはなだらかな地域にある大きな村で、以前はヘリポートがあったとガイドが言った。今、その場所には多くのガソリンタンクが山積みにされていた。これもチベット側から運ばれているものだろう。

さらに進むと、クーラカン(聖なる山)が目の前に見えてきた。地元の人によると、「チベット歴の7/15に巡礼祭が終わったばかりだ」と言っていた。ティンキュー手前には、遊牧民のテントがいくつか見られた。ヤクの毛で織られたものあれば、現代の化学繊維の生地のテントまでと様々だった。そこでは、ヤギの乳搾りのスタイルを見かけたが、1958年の西北ネパール学術探検隊(故 川喜田ニ郎氏)の報告と変わらない姿がそこにあった。

遊牧民のテントとヤギの群れ。昔からの景色が広がっていた

 

西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く
~ムスタン、ドルポ、フムラへの旅~

リウマチという難病を抱えながら、チベット(中国)国境に近いヒマラヤの最奥の地ドルポで、約
100日におよぶ越冬を単独実現させ、2020年植村直己冒険賞を受賞した登山家初の本。今秋、発売予定。

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

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