雪の中を歩く、たったひとりで。風と命の物語『PIHOTEK 北極を風と歩く』【書評】

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評者=辻山良雄

PIHOTEK 北極を風と歩く

文:荻田泰永
絵:井上奈奈
発行:講談社
価格:3080円(税込)

 

絵本のタイトルになっているPIHOTEK(ピヒュッティ)とは、「雪の中を歩いて旅する男」という意味の言葉。絵本の文章を担当した、北極冒険家の荻田泰永さんに、イヌイットの友人が与えてくれたイヌイットネームだ。

そしてその名前は、荻田さんという人をとてもよく表わしている。

主人公の「僕」は、テントやウェアといった「命を支える道具」、そして必要最小限の食料を積み込んだソリをロープで引っ張り、今日も歩き続ける。そうした日々淡々と繰り返されるリズムが、ストーリーに流れる通奏底音として響いている。

そこに登場する人物は、「僕」ひとりだけだ。世界にただひとりいるという圧倒的な孤独を、彼がどのように感じているかはわからない。それは、北極とはそのような場所だという諦念なのかもしれないし、やっとひとりになれたという、心の底からわき上がってくるうれしさなのかもしれない。

荻田さんは北極を歩くとき、自らを冷静に保つため、「ただひたすらに北極海を前進するための、動物的であり、どこか機械的な一人の人間」になるという(『考える脚』)。しかし、「淋しい」とか「恐い」とかいった人間的な感情を排したあとに、立ち現われてくる世界の姿があるのだろう。本書での荻田さんの文章には無駄がなく、硬質的だが、それは長年極地を歩いた体験から、鍛えあげられたものなのかもしれない。その張りつめた静けさが、読むものの心を、ひと時しんとさせる。

そうした極地からの視線で見てみれば、この地球の生きものすべてがみな同じ〈いのち〉であり、そこに大きな違いは存在しない。わたしはある時、雪原をうろつくホッキョクグマだったのかもしれないし、草の根を食むライチョウだったかもしれない。そしてそうした輪廻のような雄大な時間を伸びやかに描いたのは、本づくりに対しても並々ならぬ情熱を注ぐ、画家の井上奈奈さんだ。

井上さんの色彩感覚はすばらしい。北極という厳しいモノトーンの世界だからこそ、そこで燃やされる〈いのち〉は鮮やかだ。狩りの赤、生命のみなもとのブルー、世界をまっさらな光で響かせる、夜明けの紫のグラデーション……。絵本のどのページを開いても、荘厳で原初的な美しさが満ちている。この繊細な色味、そして「生きている」ということを思い起こさせる、ざらざらとした紙の手触りを実現するのに、いったいどれだけの時間が費やされたのだろうか。

絵本本体にかけられたカバーもリバーシブルとなっている。いちど手にすると、大切にしないではいられない、「特別な一冊」の誕生だ。

 

評者=辻山良雄

つじやま・よしお/1972年生まれ。書店勤務ののち、16年に東京・荻窪に新刊書店Titleをオープン。著書に『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』(幻冬舎)、『本屋、はじめました』(ちくま文庫)ほか。

山と溪谷2022年11月号より転載)

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