知っておきたい!北アルプスの山小屋

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『山と溪谷』2023年8月号の特集「北アルプス山小屋物語」の記事を抜粋してご紹介。登山エリアのなかでも設備とサービスが充実し、多くの登山者に愛されている北アルプスの山小屋。それぞれに個性豊かで、宿泊場所としての利用だけじゃもったいない。山小屋の魅力を知って、滞在そのものを楽しもう。さらに、その始まりと時代による変遷を振り返ってみよう。

構成・文=小林千穂・大関直樹、イラスト=マエダユウキ、歴史監修=布川欣一、取材協力=富山県[立山博物館]

北アルプスの山小屋とは?

大きな山に登るとき、山中での宿泊が必要となる。そこでお世話になるのが宿泊施設である山小屋だ。北アルプスの山小屋は、数百人が泊まれるところから、数十人でいっぱいになるところまで規模はさまざま。絶景が広がる稜線、緑や水が豊かな中腹など立地環境もそれぞれに違う。

北アルプスでは近代登山黎明期から、数代にわたって家族が経営を引き継いでいるところが多く、長い歴史やご主人の考えが山小屋の雰囲気に反映されている。それが個性となり、魅力となり、いろいろなところに宿泊する楽しさにもつながる。山の上で設備は限られるけれど、山小屋で過ごすひとときは山の思い出にすてきな彩りを添えてくれるだろう。

山小屋イラスト

①稜線の山小屋

居ながらにして御来光や夕日を見られるなど山岳展望が楽しめるのが醍醐味。一方で稜線は水を得るのが困難で、水はとっても貴重。宿泊者は飲用水を分けてもらえることが多いが、歯磨き・手洗いなどの際など節水を。

②平地の山小屋

五色ヶ原、白馬大池、雲ノ平、鏡平など湿原や池のほとりといった、雰囲気がいい場所に立つ山小屋も。連泊して周辺のお花畑を散策したり、池に投影する山々を眺めたりしながら、のんびり過ごしたい。

③温泉のある山小屋

阿曽原温泉、白馬鑓温泉、高天原温泉など山の景色を見ながら野趣あふれる秘湯に入れる山小屋も。朝夕の景色のなか、山の露天風呂に浸かるのは極上のひととき。温泉を目的に山の計画を立てるのもおすすめ。

④沢沿いの山小屋

せせらぎを耳に布団に入るのも山でのステキな体験。水が豊富に得られる場所ではお風呂やシャワーを利用できることもある。谷間は携帯がつながりにくいので、連絡が必要な場合は電波がつながる所を事前に確認。

山小屋の役割

北アルプスという険しい環境に立つ山小屋。宿泊サービスのほかにもさまざまな面で私たちの登山を支えてくれている。

宿泊施設として
テント装備や食料などの重い荷物を背負わなくても、複数日程の登山を楽しめる上、建物内は風雨の直接的な影響を受けることがなく、悪天時も安心して布団に入って体を休められる。また、希望に応じて夕食、朝食、弁当を用意してもらえ、食事の心配をせずにくつろげるのがありがたい。

登山インフラの提供
山小屋に宿泊しない場合も、テント場やトイレ、水場は利用することになるだろう。そのような場所の清掃・管理も山小屋スタッフの仕事であることが多い。ほかに山小屋では軽食を頼んだり、行動食や飲み物、ウェア類の購入ができる。宿泊者は携帯の充電が可能なところもある(一部有料)。

緊急時対応
登山中のケガや病気で、警察などの救助隊が出動できないときには、山小屋スタッフが救助に駆けつけることも。また、救助隊に食事や飲み物を提供するなど間接的にも活動を支えている。シーズン中には診療所が開設されるところもある。大雨や落雷などの天候急変時には山小屋が避難先となる。

現地の情報提供
残雪状況や風雨による登山道の影響、混雑予想や花の開花状況、紅葉の進み具合をHPやSNSで発信してくれる山小屋が多い。また、山小屋に設置されたライブカメラ映像によって、リアルタイムで現地の状況が知れることも。計画段階からチェックして役立てよう。

登山道整備
登山道の草刈りや崩落箇所の状況確認や補修は、実質的に山小屋のスタッフが行なうことがほとんど。しかし登山道整備は重労働な上、金銭的な負担もあり、山小屋の善意だけでは維持・管理が難しいことが問題となっている。登山道を管理してくれている人がいるから登れることも忘れないようにしたい。

NEXT 北アルプスの山小屋の歴史
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この記事に登場する山

富山県 / 飛騨山脈北部

立山・大汝山 標高 3,015m

 ふつう立山と呼ぶ場合、雄山神社を祭る雄山(3003m)か、浄土山、雄山、別山を含めた立山三山を指す。昔は毛勝三山から薬師岳辺りまでを含めて立山と呼んだし、江戸時代の文人画家、谷文晁(たにぶんちよう)の『日本名山図会』では別山、立山、剱岳をひとまとめに「立山」としている。つまり漠然とした山域なのだ。  その山域の最高峰が大汝山。古くは御内陣と書かれているので、雄山神社の奥社だったと思われる。縦走路から少し東にそびえている。  花崗閃緑岩質片麻岩で構成される大汝山には、西側に氷河地形として知られるカールがある。日本の地理学のパイオニアで、日本の氷河地形を初めて発見した山崎直方の名をとった山崎カールで、天然記念物に指定されている。  冬の北西の季節風で豪雪が山の東側に積もるため、日本のカール地形はほとんど東斜面に発達しているので、西斜面の山崎カールは珍しい。室堂から見ることができる。  地籍は富山県中新川郡立山町。乗鞍火山帯に属す火山で、溶岩台地の弥陀ガ原の上にそびえている。立山のもう1つの顔は加賀の白山とともに北陸の霊山として古くから信仰されていた修験道としての山。  開山は大宝元年(701)で越中介佐伯有頼(慈興上人)が鷹狩りの折、手負いのクマを追って奥山に入り岩屋に追い込んだが、中に入ると阿弥陀如来と不動明王に化身し「立山開山」を命じたとか。同じ8世紀には越中国の国守に任じられた万葉の歌人、大伴家持が「立山に降り置ける雪を常夏に 見れども飽かず神からならし」と歌ったように、立山は霊位に満ちた山なのである。  後年、天台宗と真言密教の修験道場となり、立山三山を極楽、地獄谷と剱岳を地獄に見立てた思想が独得の立山講を生み、山麓の芦峅寺衆徒の立山曼茶羅図による視覚に訴える全国布教で信者を増大させていった。ことに、宗教上のタブーだった女性にも極楽往生ができるという「布橋大潅頂」がセールスポイントで、江戸時代での先進的、精神的女性解放の旗印だった。  イラスト入りで地獄極楽を説き、ほかの宗門では不可能な、女性でさえ極楽往生ができるという説教を聞かされたときの驚きと喜びが、立山講中の賑わいを生み、芦峅寺から材木坂を登り、長大な弥陀ガ原をたどって室堂や雄山へと、三十数kmもの山道の苦行を悦びに変えていたのである。  現在の登山者は室堂までケーブルカーやバスを乗り継ぎ、室堂から2時間30分で雄山へ、さらに15分で最高峰の大汝山に登り着く。

富山県 長野県 / 飛騨山脈北部 後立山連峰

白馬岳 標高 2,932m

 白馬岳は、槍ヶ岳とともに北アルプスで登山者の人気を二分している山である。南北に連なる後立山連峰の北部にあって、長野・富山両県、実質的には新潟を加えた3県にまたがっている。  後立山連峰概説に記したように、この山の東面・信州側は急峻で、それに比して比較的緩い西面・越中側とで非対称山稜を形造っている。しかし信州側は山が浅く、四カ庄平をひかえて入山の便がよいため登山道も多く、白馬大雪渓を登高するもの(猿倉より所要6時間弱)と、栂池自然園から白馬大池を経るもの(所要5時間40分)がその代表的なものである。  越中側のものは、祖母谷温泉より清水(しようず)尾根をたどるもの(祖母谷温泉より所要10時間)が唯一で、長大である。  白馬三山と呼ばれる、本峰、杓子岳、鑓ヶ岳、そして北西に位置する小蓮華山の東・北面は、バリエーション・ルートを数多く有し、積雪期を対象に登攀されている。  近代登山史上では、明治16年(1883)の北安曇郡長以下9名による登山が最初であるとされている。積雪期では慶大山岳部の大島亮吉らによる1920年3月のスキー登山が初めての試みである。  白馬岳の山名は、三国境の南東面に黒く現れる馬の雪形から由来したといわれる。これをシロウマというのは、かつて農家が、このウマが現れるのを苗代(なわしろ)を作る時期の目標としたからであって、苗代馬→代馬(しろうま)と呼んだためである。白は陸地測量部が地図製作の際に当て字したものらしい。代馬はこのほかにも、小蓮華山と乗鞍岳の鞍部の小蓮華側の山肌にも現れる。白馬岳は昔、山名がなく、山麓の人々は単に西山(西方にそびえる山)と呼んでいたのである。また富山・新潟側では、この一連の諸峰をハスの花弁に見立てて、大蓮華山と総称していたようである。  この山からの眺望はすばらしく、北アルプスのほぼ全域はもとより、南・中央アルプス、八ヶ岳、頸城(くびき)や上信越の山々、そして日本海まで見渡すことができる。頂の展望盤は、新田次郎の小説『強力伝』に登場することで知られる。  日本三大雪渓の1つ、白馬大雪渓は登高距離が2kmもあり、全山にわたる高山植物群落の豊かさ、日本最高所の温泉の1つ白馬鑓温泉、高山湖の白馬大池や栂池自然園などの湿原・池塘群、こうした魅力を散りばめているのも人気を高めている理由である。また、白馬岳西面や杓子岳の最低鞍部付近などに見られる氷河地形、主稜線などで観察できる構造土、舟窪地形など、学術的な興味も深い。山頂部の2つの山荘(収容2500人)をはじめ山域内の宿泊施設も多い。

長野県 岐阜県 / 飛騨山脈南部

槍ヶ岳 標高 3,180m

 鋭角に天を突く岩峰でそのものずばりの命名、しかも北アルプス南部の登山道が集中する位置のよさ。槍ヶ岳は北アルプス南部の鎮である。  行政区分からいえば長野県の大町市、松本市と岐阜県高山市との境にそびえている山である。地理的条件も実に絶妙な場所といえる。  南から穂高連峰の縦走路、東から常念山脈や燕岳からの表銀座コース、谷筋では上高地から梓川、槍沢を遡っていく登山道、新穂高温泉から蒲田川右俣、飛騨沢を登るコースと、北アルプス南部のすべてのコースが槍ヶ岳に集中し、中央部へは西鎌尾根が唯一の回廊となって双六岳に通じる、北アルプス南部の扇の要である。  しかも鋭い槍の穂先のような姿は、日本の氷河地形の典型でもある。地質は硬いひん岩で、氷河が削り残した氷食尖峰。東西南北の鎌尾根も氷食地形、槍沢、飛騨沢、天上沢、千丈沢はU字谷とカールという、日本の氷河地形のサンプルぞろいである。  登山史上で初めて登頂したのは江戸時代の文政11年(1828)の播隆上人。4回登って3体の仏像を安置し、鉄鎖を懸けて信者の安全な登拝を可能にした。登路は安曇野の小倉村から鍋冠山を越えて大滝山へ登り、梓川に下って槍沢をつめている。今も残る槍沢の「坊主ノ岩小屋」は播隆が修業した籠り堂だ。  近代登山史の初登頂は明治11年(1879)の英人W・ガウランド。1891年には英人W・ウエストンも登っている。日本人では1902年の小島鳥水と岡野金次郎。穂高・槍の縦走は1909年の鵜殿正雄で、ここに槍ヶ岳の黎明が始まった。大正11年(1922)には3月に、慶応の槙有恒パーティによる積雪期の初登攀があり、同年7月7日には早稲田と学習院が北鎌尾根への初登攀に挑んでいる。早稲田は案内人なしの2人パーティで、槍ヶ岳頂上から独標往復。学習院は名案内人小林喜作とともに末端からと、方式も違う登攀でともに成功した。  その後も北鎌尾根ではドラマチックな登攀が行われ、昭和11年(1936)1月には、不世出の単独行者、加藤文太郎の遭難、昭和24年(1949)1月の松濤明、有元克己の壮絶な遭難が起きている。加藤の遺著『単独行』と松濤の手記『風雪のビヴァーク』は登山者必読の書である。  登山道で直接登るコースは、上高地から槍沢コース経由で槍ヶ岳(9時間30分)と、新穂高温泉から飛騨沢コース(8時間40分)の2本。ほかに穂高連峰からの縦走コース(7時間30分)、燕岳からの表銀座コース(8時間40分)、双六小屋から西鎌尾根コース(6時間)と数多い。

雑誌『山と溪谷』特集より

1930年創刊の登山雑誌『山と溪谷』の最新号から、秀逸な特集記事を抜粋してお届けします。

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