覆いかぶさってきた熊が、右の耳の上から頬まで・・・重傷を負いながらも熊を撃退したアイヌ青年の実話【羆吼ゆる山】
一瞬の出来事
七郎は幾度もこの辺一帯を歩いており、その風倒木も何回となく越えていた。その時も、いつものように風倒木によじ上り、いつものようにポンと向こう側に飛び降りたが、何かに足をすくわれたようになって踏鞴(たたら)を踏み、前へのめった。咄嗟に体勢を立てなおそうとしたとき、ガウーッと叫ぶ熊の声が耳に入り、同時に肩のあたりを強く打たれ、振り向きざまに後ろへよろけて、そのまま尻もちをついてしまった。“しまった”と七郎が急いで立ち上がろうとしたときには、覆いかぶさってきた熊が、右の耳の上から頰までを嚙み裂いていた。
しょうことなく七郎は、そのまま熊の腹にしがみつき、その顎の下に自分の頭を付けて両前足の腋の下に腕を回し、背中の毛をしっかりと握って体を熊の腹に密着させた。熊はガウーッ、ガウーッと吼えながら七郎を抱きかかえ、地面に強く押えつけたまま立ち上がろうとはしなかった。そっと右手を離した七郎は、腰のあたりを探った。手に触れたのは、いつも腰に下げて持ち歩く刺刀(さすが)であった。尻の下になってはいたが、幸いにも柄は体の外側に出ており、それを握って引いてみると、スーッと抜けてきた。刃渡り三十センチに近い刺刀に祈りをこめて、七郎は力一杯、熊の前足の近く、ここが心臓とおぼしきあたりへそれを突き刺し、グイグイと懸命に抉り上げた。
ガガァーッと怒りの声もすさまじく立ち上がった熊は、辺りをグルグルと暴れ回り、七郎を振り落とそうとして荒れ狂った。そして七郎を振り落とすや再び彼の頭を襲った。体をかわしはしたものの一瞬の遅れはいかんともしがたく、七郎はまたもや右半面に鉤爪の一撃を受け、目がかすみ、頭がガーンとなって体の力が抜けてゆき、ヘナヘナとその場に倒れゆく己れを意識した。薄れゆく視野に、走り寄ったテツが熊の鼻先に喰らいついてゆく姿がおぼろに映った―。
熊にやられたな
その日八郎は、朝早くに向別を出て、なぜともなし、心せくまま足を急がせ、昼少し過ぎに和寒別の奥にある小屋へ戻ってきた。小屋には七郎の姿はなく、テツの姿もない。背中の荷をおろし、持ってきた食料品や雑品の片付けも終え、銃の掃除を始めた時、八郎は、荒々しく表の戸板を引っ搔きながらせわしなく吠えるテツの声を耳にした。戸を開けてみると、転ぶように飛び込んできたテツの体には、血の塊りが付着し、茶色の毛が赤く汚れていた。一目その有様を見た八郎は、“熊にやられたな”と判断すると同時に無言のまま支度に掛かった。急いで足拵えを済ませ、今掃除を始めたばかりの銃を手に表へ跳んで出ると、先をゆくテツの跡を追って走りだした。
テツは、八郎を案内でもするように、ときどき立ち止まっては後ろを振り返り、八郎が追いつくとまた走りだし、和寒別の沢なりに奥を目指して走っていった。跡を追う八郎は不安であった。どこまでゆくのか、走るテツの様子では、七郎が近くにいるとは思われない。やがてテツは右の緩やかなヒラマエを上り始め、立ち止まって後ろを振り向いた。八郎は足を停め、息を整えてから沢水を呑んだ。そしてテツを追って斜面を上っていった。
テツが再び駈けだした。八郎はその跡を懸命に追った。しかし、いかに八郎が達者でも、そして勾配が緩やかだといっても、この長い上り斜面を犬のようにどこまでも走り上ることなどできはしない。呼吸が苦しくなり、胸が早鐘を打つように高鳴って、八郎はとうとう立ち木にもたれかかるようにして息をついだ。そのとき、ワン、ワンと、どこか上の方でテツが吠え、少し間をおいてまたもやせわしげに吠えたてた。その声は、まるで“早く、早く”と自分をせきたてているかのように八郎には聞こえた。気力をふりしぼった八郎は、斜面をしゃにむに駈け上がり、ようやく峰伝いの獣道に立った。
“どこだろう、兄貴は熊にやられてしまったんだろうか”頭の中を不安が走った。
「テツー、どこだあー」
八郎は思いっきり大きな声で犬の名を呼んだ。ワン、ワンと、あまり遠くないところからテツの吠え声がして、まもなく峰の獣道からテツがころがるように走り下りてきた。足下に寄ったテツは、いったん八郎の顔を見上げ、それから先に立って小走りに峰の細道を上っていった。その跡を駈け足で追った八郎は、やがて太いミズナラの木が獣道を横切って倒れているところに辿りついた。八郎もまた、この風倒木は何度も乗り越えたことがある。いつものようにその木によじ上り、その上に立って向こう側に目をやった八郎は、兄の七郎がそこで熊に襲われたことを知った。
辺り一面、落葉が搔き荒らされ、血に染まった落葉が点々と乱れ散っていた。さらに、そこから少し離れた、右手の大きなカエデの根方に、左半身を下にして、俯せに倒れている七郎の姿があった。
走り寄った八郎は兄を見た。七郎の右半面は血にまみれ、耳の上からめくれた皮が赤くただれたようにぶら下がっていて、見るも無惨な有様である。銃を背負ったままの格好で倒れているので、後ろから不意をつかれたのは明白であった。
顔面の血は黒くこびりつき、乾きかけたところもある。出血はほとんど止まっているようだ。八郎が調べた限りでは、顔面のほかに傷は負っていない。八郎は、兄を抱き起こして胸に耳を当てた。七郎は気を失っているだけで、息はしていたし、心臓もしっかりと働いていた。
(本記事は、ヤマケイ文庫『羆吼ゆる山』を一部抜粋したものです)
(本記事は、ヤマケイ文庫『羆吼ゆる山』を一部抜粋したものです)

ヤマケイ文庫 羆吼ゆる山
| 著 | 今野 保 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 体裁 | 文庫判352ページ |
| 価格 | 1,210円(税込) |
プロフィール
今野 保(こんの・たもつ)
1917年、北海道早来町生まれ。奥地での製炭業を経て、1937年から26年間炭鉱に勤務。その後、室蘭にて土木会社を設立。1984年に事故で右手を負傷するが、入院中に左手で文字を書く練習を行い、その後、執筆活動を始める。著書に『アラシ―奥地に生きた犬と人間の物語』『羆吼ゆる山』(いずれもヤマケイ文庫)がある。2000年逝去。
登る前にも後にも読みたい「山の本」
山に関する新刊の書評を中心に、山好きに聞いたとっておきもご紹介。
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