奥多摩の森で起きた奇妙な出来事。青い服の女の正体とは…【山怪】
山で働き暮らす人々が実際に遭遇した奇妙な体験。べストセラー山怪シリーズ『山怪 弐 山人が語る不思議な話』より一部抜粋して紹介します。
文=田中康弘
青い服の女
東京には二千メートルを超える山がある。青梅市から西へ進むと徐々に森が深くなり、本格的な山歩きを楽しめる地域が広がっているのだ。そのような東京の山岳地帯、奥多摩で聞いた話。
東京の山で生まれ育った伊藤覚さんは、現在林業関係の会社を経営している。山は子供の頃からの遊び場で、毎日走り回っていたそうだ。
「私にはあんまり無いですねえ、変な話は……作業員の人からはいろいろと聞いたことはありますよ」
自身には不思議な体験は無いと言うが、胸騒ぎが抑えられなかった出来事はあった。それはある現場で昼食時のことである。
「昼ご飯を食べて休んでいたんですよ。そうしたら、“お~い、お~い”って誰かが呼ぶ声が聞こえるんです。もうそれを聞いた時に凄く嫌な感じがしましたね、胸騒ぎっていうか、とにかく嫌な感じでしたよ」
実は伊藤さんにはその声に聞き覚えがあったのだ。長年の付き合いで山をよく知った知人の声である。山のガイド役としても世話になっているその人は数日前に亡くなっていた。その人の声に間違いないのだ。
「他の作業員には上手く誤魔化して、その話をしませんでしたね。現場でそんな話したら、やっぱり気持ちが悪いじゃないですか」
同質に思える山の中でも、各現場の空気感はかなり違う。何が原因かは分からないが、誰もが落ち着かない気分になってしまう悩ましい現場もたまにあるようだ。
*
ある森に三人の作業員が下草を刈ったり枝打ちをしたりと数日通っていた時のことである。作業中にどこからか鈴の音が聞こえてくるのに一人が気がついた。刈払い機のエンジンを止めて耳を澄ますと、
“チリン、チリン”
聞こえるのは間違いなく熊鈴の音である。
「あれ? 誰かが入ってきたのかな?」
不思議に思うのは無理がなかった。その現場はかなり奥山で、自分たち作業員も車を止めた場所から随分と歩いたのである。現地まで道は無く、鬱蒼とした森の中を登らねばならない。そんな所にいったい誰が入ってくるのだろうか? 作業員はじっと音のほうに目を凝らした。
“チリン、チリン”
確かに熊鈴の音ははっきりと聞こえるが、人の姿はいくら探しても見えなかった。
「人の姿が隠れるような藪なんて無いんですよ。それなのに何も見えない、すぐそこで音がするのに。何かね、嫌な感じはする所でしたよ、その現場は」
この時、近辺では三人の作業員が働いていたが、そのうちの二人ははっきりと熊鈴の音を聞いていた。しかしそれだけでこの現場の異変は収まらなかったのである。
「段々とね、姿が見えるようになってきたんですよ」
それは熊鈴事件から数日後の出来事だ。
「枝打ち作業をしている時です。現場にね、青い服を着た女の人が歩いてきたんです。それを見つけて、危ないから声を掛けて止めたんですよ。上から枝が落ちてきますからね」
切られて高所から落ちてくる枝が頭に当たれば大変だ。そこで気がついた作業員が青い服の女性の足を止めたのである。しかし……。
「後で他の奴に“お前何してたんだ”って言われました」
木に登って枝打ち作業をしていた同僚は、下で声がするのに気がつき手を休めたそうだ。顔を向けると件の作業員が何やら話をしている、それも身振り手振りで一生懸命に。
「木の上の人には見えなかったらしいんですよ、青い服の女性が。だから私が一人で話をしていると思ったんですね。あいつおかしくなったんじゃないかってね。それ以外にも白っぽい感じのお爺さんが歩いていたりするのも見ましたね。とにかく何とも嫌な感じのする現場でしたよ」
*
山で白い服を着た人は時々見かけるものらしい。登山道に近い現場で作業をしていると白装束のお爺さんが歩いてくる。少し足元がおぼつかない。危ないなと思いながら見ていると、その姿が忽然と消える。それが何者かは分からない。
「夕方近くに山に入ってくる人は注意して見ますよ。気になりますよね、かなり」
何が気になるのか、それは自殺である。実際に自殺者は昔から少なくない場所なのだ。大抵は夕方近くに入るらしい。そこが夜明けとともに動き出す登山者とは違うのである。
「午後三時過ぎにね、山に入っていくお爺さんを見たことがあるんですよ。格好はとても山歩き用じゃないんです。白い服に白い靴を履いてね。ああいうの見ると心配になりますよね」
白い服に白い靴、それは覚悟の姿か、それとも怪しいモノなのか……
(本記事は、ヤマケイ文庫『山怪 弐』を一部抜粋したものです。)

山怪 弐 山人が語る不思議な話
| 著 | 田中康弘 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 880円(税込) |
日本の山々には異界へと通じる扉があるのかも知れない(「はじめに」より)
子供の頃、私は夜の便所が怖かった。薄暗いオレンジ色の電球は汲み取り式の便槽をただならぬ存在に仕立て上げる。何者かが出てくるよりも自分がそこへ引きずり込まれるような恐ろしさを感じたものだ。
子供の頃、私は夜の風呂場が怖かった。真っ暗な父の仕事場を抜けて風呂場の電気を点けるまでの数秒間は毎日が戦いである。温かい湯船に浸るとほっとするが、電気を消してまたあの暗闇の中を戻らねばならないことを考えると憂鬱になった。
子供の頃、私は八畳の広間が怖かった。鴨居に掛かった祖父母や戦死した叔父の写真と目が合うのがたまらない。八方にらみというのか、部屋のどこにいてもかならず全員と見つめ合うこととなる。無表情な人の視線ほど怖いものは無いと感じた。
少なくとも昔の田舎家には怖いと感じる闇や冷たさがある。誰もいないはずの部屋を歩き回る足音が聞こえたり、障子がぱたっと閉まる音を聞いた人は多いのではないだろうか。震え上がって親に話をしても一笑に付されるだけだ。大抵の場合次の展開は無く、映画のようにこれでもかと恐怖が押し寄せてくることはほぼあり得ない。それはそれで大変ありがたい話なのだ。では小さな恐怖の正体はというと、結局不明のまま時が過ぎ去る。
私を怖がらせた生家とは違い、現代の住宅は密閉性が非常に高い。外部との温度差や湿度のコントロールを効率的に行うためだ。開口部はなるべく小さくして遮音性の高い窓を配した空間は、さながらシェルターのようでもある。そこにいれば一年中同じような、言い換えれば変化の乏しい空気の中で暮らせる訳だ。天井が低い家の中は隅々まで明るくビジネスホテルのようであり、そこには薄気味悪さを感じさせる要素はまったく無い。現代人のほとんどはこのような住環境の中で暮らしている。一見利便性が高く快適極まりない生活空間は、人が本来持っている本能を眠らせてはいないだろうか。
人が山へ入る目的はさまざまだ。頂きを目指してひたすら登る人、旬の山菜やキノコを求めて藪を搔き分ける人、幻の巨大イワナに会うために沢を遡上する人、獣を打ち倒すために崖をよじ登る人、山仕事のために森を跋扈(ばっこ)する人、そして自分を鍛えるためにひたすら山を駆け巡る人。
目的は各々違うが、山の中に自分の体を投げ出すのはすべての行為に共通する。それは暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが日が照りつけようが、一人であろうが複数であろうが、変わらない。普段はマンションで快適に暮らし、明るいオフィスで仕事をする現代人たちも、山へ入ればたちまち古代人と同じ土俵に立たされる(もちろん装備は違うが)。そこは普段自分たちが生活している日常とはかなり異なっている。静かすぎて耳が勝手に妙な音を拾ってくる世界、暗すぎてその闇の奥をじっと覗き込んでしまう世界。そんな独特の世界では空気の微妙な変化や鼻腔に入るかすかなにおいにも体は敏感に反応する。闇の中に佇むモノに気がつき体が緊張したり、藪の中を進む姿無きモノに遭遇し思わず目を向ける。かと思えば今まで歩いていたはずの道が突如消え失せて森に孤立したり、信じられないくらい立派な建築物に迷い込んだりする。誰もが平等に無防備な山の中では、少なからぬ人がこのような山怪に遭遇するのだ。山怪経験の程度は実にさまざまである。とてつもなく恐ろしい目に遭う人がいるかと思えば、何とも長閑な時を過ごす人もいる。人それぞれの体質やバックボーンの違いが体験の差となって現れるのかも知れない。
この本では基本的に前作と同じ手法で日本各地を回り、話を聞いている。山間部に暮らす人、森林伐採等の山仕事に従事する人、登山者、そして猟師や修験者からさまざまな体験談を聞いている。どこに不思議な話があるのかまったく分からない中での彷徨える取材は効率的ではない。ある人には“雲を摑むような話だ”と笑われたが、やりようによっては雲は摑めるのである。
雲を摑むような取材を終え改めて前作を読み返すと、山怪話の共通点が浮かび上がり非常に興味深いものがあった。ひょっとしたら日本の山々には異界へと通じる扉があるのかも知れない。扉の場所は違えども行き着く先は同じなら、各地の話に共通点があっても不思議ではないのである。個人的にはその扉に手を掛けたくはないのだが……。
プロフィール
田中康弘(たなか・やすひろ)
1959年、長崎県佐世保市生まれ。礼文島から西表島までの日本全国を放浪取材するフリーランスカメラマン。農林水産業の現場、特にマタギ等の狩猟に関する取材多数。著作に、『シカ・イノシシ利用大全』(農文協)、『ニッポンの肉食 マタギから食肉処理施設まで』(筑摩書房)、『山怪 山人が語る不思議な話』シリーズ『鍛冶屋炎の仕事』『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』(山と溪谷社)などがある。
山怪シリーズ
現代の遠野物語として話題になった「山怪」シリーズ。 秋田・阿仁のマタギたちや、各地の猟師、山で働き暮らす人びとから実話として聞いた、山の奇妙で怖ろしい体験談。
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