
8000mで2晩のビバーク。マカルー登頂後に待ち受けていた厳しい試練【凪の人 山野井妙子③】
ヨーロッパアルプスやヒマラヤなどで数々の登攀を成功した山野井妙子(やまのい・たえこ)は、世界的なクライマーとして頭角を現わす。しかし、その道は平坦ではなく、マカルーとギャチュン・カンの登攀では両手足の指の多くを失う壮絶な経験をする。どんな困難な状況でも冷静さを失わず、ただひたすらに「いま」を生きる姿は、周囲の人々を惹きつける。彼女の記録的な登攀の裏にある、穏やかで動じない「凪」のような心のありようと、その人生の軌跡――。妙子の半生を追った書籍『凪の人 山野井妙子』より、ナンガ・パルバット、エベレスト、ブロード・ピークを経験した後、秋のマカルーに挑んだ箇所を抜粋して紹介しよう。
文=柏 澄子
マカルーの頂へ
隊長の今村は、マカルーのタクティクスについて6つのことを決めていた。極地法を用いる。キャンプ3(C3)、C4では睡眠用に酸素ボンベを使用する。ただしC3では最初の夜のみ。疲労を残さないためにできるだけ短期間(予備日を含め35日間)で登山を終える。アタックは2回行ない、全員が1回はチャンスをもてるようにする。休養はBCで取る。以上の6点だった。
しかし妙子だけは少し違った。妙子は無酸素登頂を目標としていたので、上部キャンプでの睡眠時でも酸素は使用しないと決めていた。
ある日、妙子はBCから、スイス隊のエアハルト・ロレタンとジャン・トロワイエが登る様子を、うっとりと眺めていた。ふたりは当初、マカルー西壁をねらっていた。マカルー西壁は、岩と氷で形成された標高差2700mの壁であり、威風堂々とした姿だ。8000m峰にある最難関な課題のひとつとされ、挑戦する実力のあるクライマーは世界中を探してもわずかしかおらず、挑戦できること自体が羨望の的だった。
ロレタンとトロワイエは上部の深雪に苦しみ、いったんBCまで撤退してきていた。その後、西稜をたどった。妙子が終始双眼鏡をのぞいていたのは、ふたりが西稜を登攀しているときだった。すごいスピードだった。妙子は食い入るように目を凝らし見ていて、気がついたら夜が明けて、ふたりはずっと上にいた。そのときはただすごいなと思っていただけであるが、きっと自分もあんな風に軽快に登りたいと思っていたのだろうと、のちに妙子は振り返る。そのときの彼女は8000m峰といえばブロード・ピークを1座登っただけだった。初めて8000m峰に登頂できたことはうれしかったが、自分が理想とするスタイルからは程遠いと思っていたのだ。
それにしても、妙子が他者の行為にそこまで憧れるのは珍しい。普段の妙子は他者からほとんど影響を受けないのだ。ほかの人がなにをしようと関心がない。以前からそうだ。だからいまどきのSNSもいっさい見ない。「いいね」に象徴されるような承認欲求もまったくない。自分のやりたいこと、自分自身のことに集中するだけなのだ。周囲の人ががんばっているのを見て、「ああ、すごいな」と思うことはあっても、それを羨ましく思ったり、真似しようと思うこともない。だから伝記の類いはほとんど読まない。自分のやりたいことのために、客観的にみて何が必要か、どんな努力をしたらよいかを考え、それに集中するだけなのだ。
そんな妙子がロレタンとトロワイエの姿に夢中になり、30年以上経ったいまでもその残像を覚えているというのだから、彼らの登攀は、妙子にとって特別だったのかもしれない。
さて、頂上アタックは第1次アタック隊と第2次アタック隊の2回にわたって行なわれることになった。妙子は第2次アタック隊。メンバーは妙子と石坂、野沢井だ。副隊長の妙子は、第2次アタック隊のリーダーでもある。
10月4日、妙子たち第2次アタック隊がいよいよBCを出発した。そのころ第1次アタック隊の今村たちは、山頂を目前にして最終キャンプであるC4に向かっていた。今村、二俣、岡田は3人とも睡眠時に酸素を吸うが、ほとんど眠れなかった。翌5日、快晴のなか全員が登頂し、無事C4に戻った。
妙子たちはC1に宿泊後、C2を飛ばしてC3に入った。計画どおりだ。この日、下山してくる今村たちとすれ違う。妙子たちは今村たちの登頂をねぎらい、今村たちは妙子たちを応援しながらも、下りだけが本当に心配だとルートを詳しく説明した。
翌日C4へ。C4では石坂と野沢井とシェルパのフル・ギャルツェンのみ睡眠時に酸素を吸った。
明けて10月7日、いよいよ妙子たちが山頂へ向かう日が来た。第1次アタック隊は、前日のうちにBCに下っており、この日は終日トランシーバーをオープンにし、いつ妙子たちから連絡が入っても対応できるようにしていた。妙子たちを見守るような気持ちだった。今村はうまくすれば全員登頂、妙子は8000m峰の連続登頂も可能だと思いをめぐらせた。
妙子たちは1時に起床。お茶を飲み3時30分にはC4を出発した。空は晴れているが風は強く、寒さは厳しかった。ヘッドランプの灯りを頼りに、雪面に残る今村たちのアイゼンの跡をたどった。7800mあたりから始まるクーロワールでは、石坂をトップに進んだ。途中、今村たちがロープをフィックスしたところにたどり着いたあたりで、妙子のアイゼンに不具合が生じた。スリングを使って固定するのに1時間以上を要して、再び登り始める。
8000mを越えた付近から野沢井が遅れ始めた。妙子たちは野沢井を待ったが、ペースが上がらないことに危険を感じた妙子は、ギャルツェンに付き添ってもらい下山するよう野沢井に言った。
11時20分に登山を再開。第1次アタック隊の登頂は11時から12時30分の間だったので、BCの今村たちはトランシーバーに耳を傾け、いまかいまかと登頂の報告を待っていたが、なかなか声は届かない。
15時40分、妙子がやっと山頂にたどり着く。雪稜の向こうに身を乗り出しあたりを見渡すと、これ以上高いところはない、ここが山頂だとわかった。狭い頂上だった。妙子はトランシーバーでBCと交信した。少し遅れて15時55分、石坂も登頂した。石坂は妙子に「ここが頂上ですか」ととてもうれしそうに声をかけた。
しかし時刻はすでに、16時近かった。C4を出発して12時間以上経っていた。日暮れも近づいている。すぐにでも下山を開始しなければならない。山頂は息もできないほどの強風になり、羽毛服を着こんでいたが、それでもとても寒く感じた。妙子は登りで苦労したナイフリッジのトラバースをもう一度通過すると思うと、気が重かった。疲れた体であるが、集中して慎重にミスなく越えていかなければならない。
長い下り、8000mからの脱出
ふたりは互いに写真を撮り終え、強風に耐えながら下山を開始した。ナイフリッジを下り、クーロワールの入り口まで来た。これが16時51分。妙子の片目がかすんで見えづらくなってきた。低酸素の影響だろう。さらに日が傾き夕方になってきたこともあり、ますます見づらかった。クーロワールは石坂に先に降りてもらい、氷が出ている危険な箇所を教えてもらう。第1次アタック隊が張った50mのフィックスロープをトラバース気味に懸垂下降するころには、日が暮れてしまった。トレースが残っているはずだが、ヘッドランプで照らしても、いまの妙子の目では見つけることができなかった。ここも石坂に先行してもらう。第1次アタック隊のようにC4まで降りるのは無理であっても、なんとしてでも8100m地点にあるスペイン隊が残していったテントにもぐりこみたい。
妙子は先行する石坂に、「トレースは見える? 大丈夫?」と声をかけた。強風が続いている。大きな声を出さなければ届かない。石坂からは、「大丈夫、わかります」と返ってきた。その声を聞き、妙子は「遅くなるけれど、あとはただ歩を進めていくだけ。スペイン隊のテントまではたどり着けるはず」と思った。
しかし、少し歩いた矢先、石坂が再び妙子に向かって叫んだ。「トレースがわかりません。雪洞を掘ってビバークしましょう」と。それはダメだ。もう少しがんばって、なんとかスペイン隊のテントにたどり着こうと石坂を促す。石坂は再び歩き始めるがすぐに進めなくなり、結局、8200m付近で雪洞を掘ってビバークすることになった。傾斜のきつい雪面であり、雪も柔らかかったため、ふたりがすっぽりおさまる雪洞を作ることができた。
眠れたのか眠れなかったのかわからない一晩を過ごし、翌8日、あたりが明るくなるとすぐに、ふたりは降り始めた。一刻も早く安全圏まで降りたい。しかし、昨日までは元気でトップを歩いていた石坂が歩けなくなっていた。8000mを越えた標高でのビバークは消耗が激しいのだろう。ロープを出してほしいと妙子に言う。ふたりはスタカットで降りた。ほんの少し降りるのにものすごく時間がかかっていることを妙子は自覚していたが、漠然と7800mのC4までは降りられるだろうと思っていた。妙子は石坂よりは体力が残っていたが、自分たちの状態やおかれた状況を客観視する思考はできなくなっていた。自分の手足で凍傷が進行している自覚もなかった。
一方の野沢井とギャルツェンは、妙子たちの登頂日にC4で待っていたが、ふたりがいっこうに降りてこないため何かあったのだと思い、そのままC4にとどまっていた。けれどこれで4日目になる。ふたりも消耗が激しい。野沢井たちとてこのままC4に留まるのは厳しい。そろそろ降りなければならなかった。
11時40分、BCでは妙子からの無線で、ふたりが前夜ビバークをしたことと、下降を再開したが石坂の疲労が激しくいまだ8100m地点にいることを知る。今村たちは、最悪な状況であるとすぐに理解した。朝から下降を始めて昼近くになるというのに、標高差100mしか下っていないのだ。一方の野沢井たちは無線を持っていないので、彼らの動きはわからないままだった。
BCの今村、二俣、岡田は救援に行くと決め、8日のうちにC1に入った。
妙子たちは夕方近くにやっと、約8000m地点にあるフィックスロープにたどり着いた。ここで石坂に先に下降してもらおうとするが、エイト環をロープにかける直前に、石坂のアイゼンが壊れてしまった。石坂は手持ちのスリングでアイゼンを登山靴に固定し、下降した。妙子は日没に備えてザックからヘッドランプを取り出したが、電池が切れたことに気づいた。前日、石坂のヘッドランプを落としてしまったので、もう手持ちはない。
石坂が下降した地点は氷が硬く、雪洞は掘れないという。妙子は石坂に「登り返して来て」と声をかけながら、暗くなり手元を照らす灯りもないなか、雪洞を掘り始めた。途中3回ほど繰り返し石坂に声をかけ、石坂が登り返していることを確認した。その後、どれぐらい時間が経ったのか定かでないが、妙子がもう一度石坂に声をかけたとき、石坂からの返答はなかった。石坂につながっているはずのロープはテンションがかかったまま動かない。このときになって妙子は初めて、自分たちが死に直面していることを感じた。とうとう石坂は妙子の元には上がってこなかった。妙子は、暗闇のなかふたりが入れるように掘った雪洞で、ひとり夜を明かした。
翌9日の朝、石坂と妙子を結ぶロープからなんとかテンションを抜き、妙子が下降していくと、白く冷たくなってしまった石坂を発見した。妙子の頭はボーッとしていたが、ともかく自分が安全に降りて助けを呼ぼうと下降した。
一方、救助に上がった3人についていうと、岡田は体調不良でBCに下山をした。今村と二俣がC2に向かう最中、再び妙子から無線連絡が届いた。「石坂くんが亡くなりました。ただいま8000m付近にいます」
今村たちは8000mで2晩過ごした妙子の命も危ないと先を急ぐが、ペースが上がらない。C2手前で下山中の野沢井たちと会い、彼らが無事であったことにほっとした。野沢井たちも、妙子と石坂の状況をのみ込んだ。
その後、妙子から「C4に入った。水を作ろうとコンロに火をつけた」とはっきりした口調で連絡があり、今村はもう少し下るよう指示した。
17時40分、7600m付近で妙子と今村が出会った。最後はラッセルだった。少し遅れて酸素ボンベを背負った二俣も上がってきた。今村は妙子をひと目見て、「8000m以上で2晩もビバークしたとは思えないほどしっかりしている」と思ったが、手足の凍傷はかなり重傷だという印象を受けた。片方のアイゼンはアタックの途中に壊れたままで、スリングでグルグルに縛ってあるだけだった。すぐに酸素ボンベを差し出したが、妙子は「いらない」と言い、7400mのC3へ降りた。
テントに入ってからも今村と二俣は酸素を勧めたが、妙子はいらないという。8000m以上の高所で2晩のビバークをした妙子に対して、今村たちが酸素ボンベを差し出すのはもっともなことだった。身体は弱っているし、手足の凍傷も心配だ。けれど妙子は受け入れなかった。石坂をマカルーに置いてきた無念さに、心はとてつもなく痛い。けれど、それと妙子自身の登山は別の問題だった。妙子は無酸素で登ると決めていたのだ。それを最後まで貫きたい。どんなときであっても妙子は自分の登山と向き合うことをやめなかった。ここで酸素ボンベを使うか否かは、妙子にとって重要な問題だったのだ。
妙子は決してボンベのマスクを顔に当てることはなかったが、結局、みなと一緒に入ったテント内で、睡眠時にマスクを使わずに酸素ボンベのバルブを開け、酸素をテント内に放った。
翌10日、妙子は仲間に付き添われ、時々休みながらBCまで降りた。
11日朝、全員で石坂に黙禱をした。その後、BCを撤収。妙子はポーターに背負ってもらいながらヒラリーBCを越え、ジャックカルカまで降りた。
夕方になると雪が舞ってきた。それは石坂が降らす別れの雪のようであり、ヒマラヤに冬が近づいている予兆でもあった。
その後ヘリコプターを待ち、14日にカトマンズへフライト。妙子はそのまま病院に入った。けれど、カトマンズの病院では満足な治療はできないため、早々に帰国の便を手配。ちょうど、日本の冬季エベレスト隊がカトマンズ入りをしており、妙子を見舞ってくれたり、石坂の死亡に関する事務処理などさまざまなことを手伝ってくれた。ひとりは妙子をバンコクまで見送ってもくれた。妙子は無事に帰国し、そのまま凍傷の治療経験が豊富な金田正樹医師が勤務する聖マリアンナ医科大学東横病院に運ばれた。
(『凪の人 山野井妙子』より抜粋)
山野井妙子(やまのい・たえこ)
1956年、滋賀県生まれ。77年、東京北稜山岳会入会。82年、冬季グランド・ジョラス北壁登攀。91年、ブロード・ピーク、マカルー登頂。94年、チョ・オユー南西壁スイス・ポーランドルート第2登。96年、山野井泰史と結婚。2002年、ギャチュン・カン北壁登攀。これにより植村直己冒険賞受賞。07年、グリーンランドのミルネ島「オルカ」初登。20年、静岡県伊東市に移住。

凪の人 山野井妙子
| 著 | 柏 澄子 |
|---|---|
| 発行 | 山と溪谷社 |
| 価格 | 1,980円(税込) |
プロフィール
柏 澄子(かしわ・すみこ)
登山全般、世界各地の山岳地域のことをテーマにしたフリーランスライター。クライマーなど人物インタビューや野外医療、登山医学に関する記事を多数執筆。著書に『彼女たちの山』(山と溪谷社)。
(公社)日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。
(写真=渡辺洋一)
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