序章 単独行の手応え|宗谷岬から襟裳岬~670㎞63日間の記録~

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北海道の中央には宗谷丘陵から北見山地、石狩山地、日高山脈が連なり、長大な分水嶺を構成している。2022年冬、雪に閉ざされたその分水嶺を、ひとりぼっちで歩き通した若き登山家がいた。彼が描いた夢のラインは、宗谷岬と襟裳岬を結ぶ南北670km。そのルートは極地徒歩横断に匹敵するとも表現される。テントや雪洞の中で毎夜地形図の裏に書き綴った山行記録をもとに、2ヶ月余りにわたる長い単独登山を振り返る。

文・写真=野村良太

縦走最終盤、57日目の夕暮れ。
神威岳(右)とソエマツ岳(左)を望む
極上のテントサイト

 

序章 単独行の手応え

「完全単独ワンシーズンであれば、極地の単独歩行横断に匹敵する、最も困難で素晴らしい記録になることは間違いない。」

『北の分水嶺を歩く』(山と溪谷社)の著者、工藤英一氏があとがきに残したこの言葉が頭を離れない。極地というと、北極や南極ということだろうか。そこがどのようなところなのか僕はまだ知らない。ひょっとするとそのレベルのすごい挑戦なのかもしれない。

工藤氏は北海道の宗谷岬から襟裳岬へと続く長大な山岳ルートを、15回の山行、延べ日数にして約130日を要して初踏破した。最初の山行から17年後の達成だった。『北の分水嶺を歩く』はその記録をまとめた一冊だ。工藤氏のあとがきはこう続く。

「いつの日か誰かに、人並はずれた艱難辛苦に耐える精神力と強靭な体力の持ち主に、挑戦し実現してもらいたい。本州や外国ではなく地元の北海道にこんな素敵なかけがえのないルートがあるのだから、道内のこれからの若き岳人に期待している。人間の精神力と体力の可能性を広げ、登山者はもとより、登山の世界を知らない一般市民にも感動と夢を与えてやまない、本物の山行になると僕は強く信じている。」

ぼんやりと、この“若き岳人”というのが僕のことにならないかな……。と思う。「本物の山行」という言葉は僕の心を惹き、深く脳裏に焼き付いた。

時は遡って2019年の正月、僕は当時住んでいた函館のアパートで一人、こたつに向かって単独行の計画を練っていた。窓の外では大粒の雪が舞っている。あと1ヶ月の辛抱で、春休みとなる。目標は単独での積雪期日高山脈全山縦走だ。こう書くと、さも単独行に慣れているかのようだが、実際にはまだ一度も単独では山に行ったことがなかった。

2014年に北海道大学へ入学しワンダーフォーゲル部で登山に出会った僕にとって、登山とはパーティで登るものだった。ほかの大学の山岳部やワンゲルの事情はわからないが、北大ワンゲルでは安全面の問題から単独行は禁止だった。ところが大学2年目のある日、部室の隅っこに追いやられた一冊のファイルが目に留まる。「日高全山縦走ファイル」と名付けられたそれは、卒部した先輩方の単独行記録がいくつか挟まれただけの薄っぺらいものだった。けれどその中身は、当時の僕を刺激するには充分だった。それ以降、頭の片隅で“単独”、そして“日高全山”を意識するようになる。

年間100日程度の山行を4年間重ねて2018年春3月末に卒部。その間には主将も経験した。2019年の春休みは部を離れ、単独行が解禁される待ちに待った春だった。いよいよ日高へ行こう。そうは言っても長期の単独行は初めてだ。いきなり日高全山へ挑戦するのはハードルが高いと思い、悩んだ末に出した結論は準備山行としての「積雪期単独知床半島全山縦走(海別岳~知床岬)」。知床といえば、大学に入って初めての春に10泊11日の長期縦走に連れて行ってもらった思い出の山だ。果たしてこれが準備山行として適切だったかは今となっても不明だ。準備山行と言いつつも、ただ知床を端から端まで歩きたいというだけだったように思う。それでも長期の単独行の経験と、根拠の弱い自信を得るという意味では申し分なかった。好天にも恵まれて2月に知床の計画を13日間で完遂すると、勢いそのままに1週間余りの休養を経て日高山脈へと向かったのである。


2015年3月。登山にのめり込むきっかけとなった
知床縦走。奥には羅臼岳


2019年2月。知床半島羅臼岳山頂にて。
ガスが晴れると稜線と流氷が


日高は険しく、そして厳しかった。知床で自信が得られたら日高でも通用するのでは、と思っていたが、どうやら両者は困難さのベクトルが違っていた。気象判断が核心だと言われる知床全山に対し、日高全山では心技体全てにおいて高い総合力が試される。前者は幸運にも天候を味方につけて乗り越えられたが、後者はそうはいかない。3月中旬の17日間、日勝峠から襟裳岬までの約170kmの間に避難小屋などの人工物は一つもない。降雪とラッセルにあえぎ、切り立った稜線に張ったテントは、吹きだまった雪にじわじわと押しつぶされる。睡眠不足もそのままに、踏み出した左足のすぐ左から、大きく張り出した雪庇が崩れたのも一度や二度ではない。挙句、後半は悪天候の周期にはまってしまい、連日の猛吹雪の中を「ここで諦めてなるものか」と頬に凍傷を作りながら進んだ。

だからこそ、縦走終盤のピリカヌプリ(アイヌ語で「美しい山」の意)山頂で望んだ朝焼けは、今まで目にしたものの中で一番美しかった。8日ぶりに見る太陽だった。振り返ると2週間かけて越えてきた真っ白な稜線が幾重にも重なっている。この晴天さえも低気圧が通過する前のわずか2時間程度の奇跡(いわゆる疑似好天)だったが、あの感動は今でも色褪せることはない。


2019年3月。
日高山脈南部、ピリカヌプリ山頂にて。
全てが報われた瞬間だ


初めての大縦走から帰ると、自分の記録を書くよりも先に、立て続けに2冊の本を一気読みした。『果てしなき山稜 襟裳岬から宗谷岬へ』(志水哲也著/ヤマケイ文庫)。そして志水氏の著書で度々登場する、冒頭の『北の分水嶺を歩く』。

北海道を端から端まで縦断した志水氏の本があることは日高へ縦走に出かける前から知っていた。知っているだけでなく、知ってすぐにAmazonでポチっと購入して、出発前にはすでに手元にあった。けれど読まずに出発した。余計な情報が増えて、自分の山行ができなくなってしまうのではないかと恐れていたのである。そして、27歳の僕と同年代のころの志水氏が12月から5月の6ヶ月間ぶっ通しで入山した超人的な記録だと思い込んでいた僕は、実のところ、日高に出発する直前に、せいぜい3週間程度の自分の計画のちっぽけさが露呈するのを嫌ったのだと思う。しかし実際には志水氏は一つなぎではなく、全行程を12回に分けて縦走し、6ヶ月間の内の半分近くは下界で過ごしていた。自分の計画を無事に終えて、満を持して読み始めた僕はあろうことか安心してしまった。志水氏も人間だったと。


今回の計画のきっかけとなった2冊。
何度も読み返した


工藤氏の報告書をきっかけに、志水氏は12月から5月の半年間で歩き切る計画へと着想する。その内容には山の過酷さはもとより、自分探しの旅、現実との葛藤に溢れていた。誤解のないように言っておくと、志水氏はその数年前にも日高山脈全山縦走をしており、この計画に求めているのは単なる困難さや過酷さではない。ただ、厳冬から早春にかけての北海道を全身で感じるために、内なる自分と向き合うために、終わりを宗谷岬とだけ決めて旅に出たのだ。志水氏は、この終わりさえも仮のゴールであり、納得すれば途中で終わってもよく、納得できないまま岬までたどり着いても意味がない、と綴っている。ものすごい旅だ。その考え方や生き方、ふとしたときに社会の常識に反発してしまう心情描写や随所に見せる人々への猜疑心には思わず共感してしまうところがあり、ページをめくる手が止まらなかった。単独で向かう北海道の厳しい雪山と、下界で出会うたくさんの温かい人々とのふれあい。このコントラストこそが志水氏の魅力の一つなのだけれど、これは一つの長大な“旅”だ。一つの“山”として、宗谷岬から襟裳岬まで総距離670kmを、一度も街に下りずになんとか一つなぎでは歩き通せないものだろうか。きっと地図を眺めての妄想くらいはした人もいるだろう。だが達成はおろか、挑戦した人もいないという。そうか、ならばこの足で……。

プロフィール

野村良太(のむら・りょうた)

1994年、大阪府豊中市生まれ。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ、スキーガイドステージⅠ。大阪府立北野高校を卒業後、北海道大学ワンダーフォーゲル部で登山を始める。同部62代主将。卒部後の2019年2月積雪期単独知床半島全山縦走(海別岳~知床岬12泊13日)、2019年3月積雪期単独日高山脈全山縦走(日勝峠~襟裳岬16泊17日)を達成し、「史上初ワンシーズン知床・日高全山縦走」で令和元年度「北大えるむ賞」受賞。2020年卒業。2021年4月、北海道分水嶺縦断途中敗退。2021年春からガイドとして活動を始める。2021年4月グレートトラバース3日高山脈大縦走撮影サポート、6月には大雪山系大縦走撮影サポートほか。2022年2〜4月、積雪期単独北海道分水嶺縦断(宗谷岬~襟裳岬670km)を63日間で達成。同年の「日本山岳・スポーツクライミング協会山岳奨励賞」「第27回植村直己冒険賞」を受賞した。

積雪期単独北海道分水嶺縦断記

北海道の中央には宗谷丘陵から北見山地、石狩山地、日高山脈が連なり、長大な分水嶺を構成している。2022年冬、雪に閉ざされたその分水嶺を、ひとりぼっちで歩き通した若き登山家がいた。テントや雪洞の中で毎夜地形図の裏に書き綴った山行記録をもとに、2ヶ月余りにわたる長い単独登山を振り返る。

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