女流詩人と山との濃密な交流が生んだ反アルピニズム文学『いきている山』【書評】

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評者=布川欣一

いきている山

著:ナン・シェパード
訳:芦部美和子・佐藤泰人
発行:みすず書房
価格:3520円(税込)

 

「詩人の山」はスコットランド北部のハイランド、その東部ケアンゴーム山群である。本書巻頭の略地図によると、標高1244mのケアン・ゴーム山を中心とする南北約50㎞、東西約40㎞の山域でスコットランド国立公園の一郭。最高峰は1309mのベン・マクドゥーイ、域内の山、湖、峠道、圏谷などの名は、英語ではなくゲール語(ヨーロッパ北西部の先住民ケルト人系の言語)だという。

詩人はその東に添う村で生まれ育ち、幼時から風景として見慣れ、長じて教員養成学校で教鞭を執りつつ、この山域に親しみ愛した。

さて、本書は12章から成るが、詩人は最初の章“Plateau”で山域の地形・気象など主に「蜂蜜」と「鞭」の自然とその受動をつづる。が、そこは植生まばらで荒涼とした寒冷地の山々である。訳者は、章題を邦訳して浮かぶ穏やかな「高原」とは全く異なるとして、「プラトー」と表わしたと注する。

詩人の記述は「奥地」「山群」の章へ進む。山域に入り始めた頃の詩人は、〈高さの刺激〉を味わいたく〈山頂を目指してばかりいた〉。が、多様な山の景観や天候・季節による変容に感動を重ね、〈どこに辿り着くというわけでもなく、ただ山と一緒に過ごすためだけに出かける〉ようになる。

詩人は、更に山の内部へ深入りしてゆく。記述は「水」「氷と雪」「空気と光」「いのち(植物、鳥・獣・虫、人間)」と章題を立てて続く。山で出会うさまざまな自然現象、生きとし生けるものの在りのままの姿。これらが相互に影響しあう複雑な関係! 「プラトー」の章では、〈人間は山のことを完全には知りえない〉と言い切っていた。このように、詩人の記述は章を跨いだ横つながりも多い。

自然科学的あるいは物理的な精細な観察から、哲学的あるいは宗教的な深遠な感懐へ、詩人の論述は広く重く拡がる。「眠り」「感覚」「存在」の章を連ね、独自の見解を展開して本書を結ぶ。

山で眠り、鹿の動きで目覚め、湖で泳ぎ、谷を徒渉し、厳寒に筋肉をこわばらせるなどの体験を重ねる。山の自然と肉体、感覚との緊張関係から〈私と山とのあいだで何かが動く〉のを実感し、自らの存在を確かめる。まさに山は「いきている」。記述する詩人の文は歯切れよく、迫力に富む。

詩人が本書を執筆したのは1944~45年、第2次世界大戦終戦前後の、50歳代前半。初版は77年刊、本書は2008年版を用い、R・マクファーレンが11年版に寄せた解説的な序を付す。

あまりなじみのない山域に拠る80年も前の著作だが、アルピニズムの対極に立つ詩人の登山観は、我が静観派と重なるところも多く、普遍性は極めて高い。訳者による丁寧な訳注には大いに助けられた。久しぶりに重く強く心に響く山岳文学書に出逢った。

 

評者=布川欣一

ぬのかわ・きんいち/1932年生まれ。登山史研究家。本誌をはじめ山岳雑誌に登山史関連の記事を多数寄稿。著書に『明解日本登山史』『山道具が語る日本登山史』(いずれも山と溪谷社)などがある。

山と溪谷2023年2月号より転載)

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