1902年1月の八甲田山雪中行軍遭難事故の真実/鮮やかに蘇った120年前の天気図と気象状況

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登山者ならずとも、冬山での遭難事故として、多くの人が知っている『八甲田山死の彷徨』。1902年(明治35年)に199名が凍死した大惨事の原因は大寒波と異常低温とされているが、実際に当時のデータを紐解いてみると、意外な事実が浮かび上がってきた。

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山岳防災気象予報士の大矢です。一時は中心気圧905hPaの猛烈な勢力まで発達した台風2号が、勢力を落としながらも「黒潮ルート」を進み、黒潮から吸い上げた大量の湿った空気を梅雨前線に送り込んだため、6月2日は各地で線状降水帯による豪雨で大きな被害を与えました。皆様のお住まいの地域で被害を受けた方がみえましたら、心からお見舞い申し上げます。

さて今回のコラム記事では、長年にわたって知りたいと思っていた有名な1902年(明治35年)の八甲田山雪中行軍遭難事故の気象状況について、ようやく再現することに成功しましたのでご紹介したいと思います。

これまではJRA-55(気象庁55年長期再解析データ)を使って過去の気象状況を再現してきましたが、1958年までしか遡ることができませんでした。しかしNOAA(アメリカ海洋大気庁)による再解析データならば何と1836年(江戸時代の天保7年)まで遡ることができます。しかし、さすがに実際の観測データが不足していると精度が落ちるため、使い物になるのは気象観測体制がある程度は整ってきた1900年前後からのようです。ちなみに八甲田山に近い青森の観測データは1882年(明治15年)1月から気象庁ホームページで見ることができます。

NOAAの再解析データによって再現した結果は本当に驚くべきものでした。120年前の天気図と気象状況をここまで鮮やかに再現できるとは予想外でした。このように八甲田山雪中行軍遭難事故の天気図と気象状況を詳細に再現したのは、これが初めてのことと思います。そして解析によって様々な真実が見えてきました。

図1. 積雪期の八甲田山の山並み (出典:ヤマケイオンライン)

 

八甲田山雪中行軍遭難事故の概要

新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』、そして高倉健、北大路欣也らが主演した映画『八甲田山』であまりにも有名な遭難事故ですが、『八甲田山死の彷徨』のWikipediaで概要を振り返ってみましょう。

日露戦争直前の1902年(明治35年)に、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習として、また陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が八甲田山で行った雪中行軍の演習中に、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪に遭遇し、210名中199名が死亡した八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした山岳小説。演習当日には、北海道で史上最低気温が記録されるなど、例年の冬とは比べ物にならない寒さだったといわれている。

遭難したのは青森歩兵第5連隊(以下、青森隊)で、青森隊が八甲田山の猛吹雪の中で壊滅的な状態に陥った悲惨な状況は、小説や映画をご覧になった方はよく記憶されていると思います。一方の弘前歩兵第31連隊(以下、弘前隊)は一人も犠牲者を出さずに弘前に生還しています。

同じ気象状況でありながら天と地ほどの差がついたのは、青森隊の指揮系統、装備(雪・寒さに対する備え)など、色々と問題があったからと言われていますが、本コラムでは再現した天気図と気象状況から青森隊の行動を追ってみたいと思います。

 

雪中行軍初日(1月23日):午前中は「疑似好天」だったが・・・

青森隊が出発する前の20日から22日にかけて2つの移動性高気圧が通過して冬型気圧配置が緩んでいます(図は割愛)。青森連隊駐屯地を6時55分に出発、冬の青森では普通の天候であり最低気温-6℃、風雪はそれほどではなかったと当時の青森隊による遭難記録(1902 遭難始末 〔本編〕、以降は遭難始末/国立国会図書館デジタルコレクション)に残されています。

NOAAの再解析データによって再現した9時の天気図を図2に示します。北海道の遥か東の低気圧から伸びる気圧の谷と、日本海の気圧の谷(日本海側に豪雪をもたらす日本海寒気団収束帯JPCZです)との間で、三陸沖に高気圧ができています。

図2. 1月23日9時の「疑似好天」の地上天気図(NOAA再解析データにより大矢作成)


そのため、北海道から中部地方まで等圧線の間隔が広くなって、冬型気圧配置が緩んでいることが分かります。3時(図は割愛)と15時(図3)には三陸沖の高気圧はないので、この一時的に発生した高気圧が「疑似好天」をもたらしたのです。

図3. 天候の悪化が始まった1月23日15時の地上天気図(NOAA再解析データにより大矢作成)


田茂木野村を過ぎたあたりから傾斜が急になって食料や燃料を運ぶソリ隊が遅れ始めたため、青森隊は11時半に小峠の丘の上で休憩して昼食を取っています。

『遭難始末』によると、この頃から風雪が強くなって、持参した米飯は半分凍っていました(食料面でのミス)。それでも、16時10分には馬立場(標高732m、現在では立ったまま仮死状態で発見された後藤伍長の銅像が立っている)に着きました。しかし、この頃から吹雪となり視界が利かず、雪も深くなり胸までのラッセルになったため、目的地の田代新湯までたどり着けず、ついに20時15分に2km手前の平沢で予定外のビバークをすることになりました。

15時の天気図(図3)を改めて確認すると、三陸沖の高気圧がなくなって、代わりに関東沖に低気圧が発生していることが分かります。風雪の強まりに対応して、青森付近の等圧線の間隔が狭くなってきています。

 

雪中行軍二日目(1月24日):冬型気圧配置が強まり「死の彷徨」へ

雪洞の掘り方が浅く(2.5m)、地面まで(4~5m)掘らなかったため、雪洞の中で薪に火を付けると雪が溶けて火種が埋没してしまって、青森隊は温まることもほとんど眠ることもできず体力を消耗する一方でした。これでは凍死の恐れがあると慌てた将校たちは夜中の2時に作戦会議を開いた結果、雪中行軍の目的は果たしたため帰途に就くとして、2時半に出発することになりました。

青森隊の誰もがこの付近の土地勘がなく、猛吹雪で帰る方向も分からないまま、真っ暗闇の中で出発したのが「死の彷徨」の悲劇の始まりでした。これはやってはならない決定的な判断ミスだったと思います。結局、青森隊は猛吹雪の中わずか700mほどしか進むことができず、鳴沢付近でビバークを余儀なくされました。

なお、映画『八甲田山』において雪中行軍二日目に、「暴風雪が止んだわずかな晴れ間を夜明けと勘違いし周囲が真っ暗な深夜にもかかわらず隊を出発させた」(山田正太郎少佐:三國連太郎、出典:Wikipedia)というエピソードがありますが、『遭難始末』にはこのような事実はありません。

NOAAの再解析データでも、25日3時の天気図(図は割愛)を見る限り、この1時間前に疑似好天が起きたとは考えにくいです。映画の中でのフィクション、あるいは既に低体温症の症状が進行していて幻覚を見たか、いずれかであろうと推測しています。 

1月24日9時の天気図を図4に示します。関東沖にあった低気圧が発達しながら東に進み、北海道付近に低気圧ができて、日本海北部から東北北部にかけて等圧線の間隔が非常に狭くなっています。この天気図から、東北北部を中心に冬型気圧配置が強まって、強風が吹いたことが読み取れます。 

図4. 冬型気圧配置が強まり猛吹雪になった1月24日9時の地上天気図
(NOAA再解析データにより大矢作成)

 

雪中行軍三日目(1月25日):強い冬型気圧配置と猛吹雪、『天は我々を見放した』

翌日の25日9時の天気図を図5に示します。北海道付近の低気圧はなくなりましたが、依然として日本海北部から東北北部までの等圧線の間隔が非常に狭い状況が続きます。暴風雪が続く中、出発の時点で死者と行方不明者はすでに70名を超えていました。

図5. 強い冬型気圧配置と猛吹雪が続いた1月25日9時の地上天気図
(NOAA再解析データにより大矢作成)


青森隊は馬立場方面に向かって出発するも道を見失い、神成大尉(映画では神田大尉:北大路欣也)は怒りの感情のままに『天は我々を見放した』と叫んだのです。これはフィクションではなく、生存者の証言があります。この一言によって隊員は意気消沈して、バタバタと倒れていきました。

ここでも青森隊は、組織のリーダーが決してやってはならないことをやってしまいました。その後の悲惨な状況は書くに忍びないため、割愛いたします。

 

八甲田山雪中行軍遭難事故の原因は、強風・猛吹雪と豪雪!?

NOAAの再解析データによって再現した風速と気温を図6、降雪量を図7に示します。雪中行軍の期間中で1月24日9時に-15.6℃の最低気温を示しています。24日の青森の観測データでは最低気温は-12.3℃です。この値から標高を考慮して(1000mで6℃低下)、馬立場の気温を見積ると-16.8℃となります。NOAAの再解析の結果との差は1.2℃であり、ほぼ再現できていると思われます。少なくとも-20℃を下回るような大寒波ではなかったと言えると思います。

図6. 1月22日9時~1月31日の風速と気温の推移(NOAA再解析データにより大矢作成)

 

図7. 1月22日9時~1月31日の降雪量と積算降雪量の推移(NOAA再解析データにより大矢作成)


また風速は疑似好天が去った23日15時以降は急激に増加して、24日15時に最も強い風速21m/sの強風が吹いたことが分かります。降雪量に関しても、23日15時以降は急激に増加して、25日9時には積算で2mを越え、26日9時には3mを越えていたという結果になりました。  

『遭難始末』の気温と風についてファクトチェックをすると、1月24日の気温は-20℃以下まで低下し、-29m/sの猛烈な風が吹いたと推定されるとの記述があります。ただしこれは実際に測った値ではなく、あくまで現場の状況から推定したものに過ぎません。気温を記録する担当の衛生兵は、手が凍ってしまい記録できず、温度計を握りしめたまま亡くなったため、気温の記録は残されていません(遭難始末)。

ただし風速に関しては、強風で木の枝が折れたという状況と、瞬間的には平均風速の1.2~1.5倍の風が吹くことを考慮すると、値としてはそれほど間違っていないと思います。NOAAの再解析データでは平均風速21mですので、瞬間風速を見積ると25~31m/sになります。  

積雪に関してもファクトチェックをすると、青森聯隊惨事雪中の行軍(1902 佐藤陽之助)のP16に三日目は「出発以来の降雪は大いにその量を増加してすでに八尺以上に及び‥」という生存者の後藤伍長(前出)の証言が残っていました。一尺は約30cmですので、八尺は2m40cmとなり、図7の積算降雪量と大体あっていることが分かります。

温度計がなければ五感に頼るしかない気温と違って、積雪深さは測ることができるのでこの証言は信用できると思います。八甲田山の付近は、全国でも有数の豪雪地帯ですので、このぐらい積もってもおかしくはありません。ちなみに八甲田山のすぐ南にある酸ヶ湯の観測所の積雪差日合計の記録は90cm(1993/12/15、統計は1979/11~現在)ですので、八甲田山雪中行軍遭難事故の時の豪雪は、この付近の史上最強クラスであったのは間違いなさそうです。

 

八甲田山雪中行軍遭難事故の真実:未曾有の低度はなく、豪雪と東北北部で吹き荒れた強風が原因

冒頭で引用したWikipediaのように、これまで八甲田山雪中行軍遭難事故は「大寒波」が原因というのが通説でした。実際にこの年の1月25日には旭川で-41℃という気象庁の観測所における日本最低気温を記録しています。『遭難始末』では雪中行軍遭難事故の時の青森の気温は、観測史上「未曾有の低度(低温)」だったとしています。

しかし、旭川の低温は北海道の内陸部で起きた強い放射冷却によるもので、強風が吹き荒れた青森や八甲田山付近では気象学的には放射冷却は起きず、そこまで低温になりません。当時の軍部は、八甲田山雪中行軍遭難事故の責任の所在を曖昧にするために、『遭難始末』において遭難事故の原因を「未曾有の寒波」のせいにしたのではないかと思われます。  

表1に気象庁の青森観測データによる日最低気温と日最高気温の低い方のベスト10を示します。青森では1882年1月1日からの観測データが存在します。1902年1月の青森の日最低気温は24日の-12.3℃が一番低い値です。表1を見ると歴代10位でも-19.1℃であり、八甲田山雪中行軍遭難事故の時の最低気温は歴代10位に遥かに及ばないものでした。

一方、日最高気温は雪中行軍中の24日と25日の-8℃が何とか9位タイに入っています。これらの実際の観測データから、『遭難始末』の「未曾有の寒波」だったというのはやはり言い過ぎではないかと思います。  

表1. 青森の観測データ(気象庁)による日最低気温と日最高気温の低い方のベスト10(1882年1月から現在)


ではなぜ全国の山岳で、八甲田山だけが青森隊がほぼ壊滅するほどの厳しい状況に陥ったのでしょうか。図7で再現した八甲田山付近の豪雪も青森隊の進退を窮(きわ)まらせた要因の一つです。もう一つの答えは松田聖子さんの歌詞(注:白いパラソル)ではないですが、風の中にありました。図8に1月24日9時における925hPa(馬立場の標高とほぼ同じ高度約750m)の風速の分布図を示します。

図4の地上天気図の等圧線の間隔が非常に狭いエリアに対応して、日本海北部から東北北部にかけて風速15m/s以上の強風が吹いており、特に八甲田山付近では20m/s以上になっていることが分かります。これが、全国の他の山岳では大きな遭難が起きず、八甲田山のみで悲劇が起きた理由だと思います。気象観測体制や予報精度が当時とは比べ物にならないぐらい向上した現在なら、間違いなく予報できていたことでしょう。なぜなら、NOAAの再解析データが当時の気象状況を見事に再現できていることが証拠です。

図8. 1月24日9時の925hPa(高度約750m)での風速分布(NOAA再解析データにより大矢作成)


以上の結果をまとめると、気象面での八甲田山雪中行軍遭難事故原因は、『遭難始末』で当時の軍部が主張した「未曾有の寒波」のせいではなく、全国でも有数の八甲田山の豪雪と東北北部で吹き荒れた強風にあったと言えるでしょう。そして、弘前隊は全員生還していることからも、気象だけでは遭難事故は起きず、大きな遭難事故の背景には必ず人的要因が存在する・・・、これが八甲田山雪中行軍遭難事故の最大の教訓であったと思います。

八甲田山雪中行軍遭難事故には、現在の登山のみならず、準備・計画や組織運営などビジネスにも繋がる様々な教訓が含まれています。そして、そこに隠された真実が分かると、更に見えてくるものがあります。今後も過去の遭難事例の気象面での検証を通じて、真実を明らかにして参りたいと思います。  

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プロフィール

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2021年9月までの2年間、岐阜大学大学院工学研究科の研究生。その後も岐阜大学の吉野純教授と共同で、台風や山岳気象の研究も行っている。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」にゲスト出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)

 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ
 ⇒岐阜大学工学部自然エネルギー研究室

山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~

登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。

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