八甲田山雪中行軍遭難事故の検証 ~雪中行軍ルートを辿り、強風で飛ばされそうになりながらも紅葉が始まった八甲田山に登る~

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2023年6月に発表し、大きな反響を呼んだ「NOAA(アメリカ海洋大気庁)による再解析データを用いた八甲田山雪中行軍遭難事故の検証記事」。その再検証のために八甲田山に訪れた山岳防災気象予報士の大矢康裕さん。地形や当時の資料を確認すると、あらためて事故当時の状況が見えてきたのだった。

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山岳防災気象予報士の大矢です。異常に暑かった9月が去って10月に入ると一気に季節が進み、各地の山岳から初雪の便りが聞こえるようになりました。紅葉前線も順調で、標高の高いところから紅葉が始まっています。

そして、この時期は時には冬山の様相を見せることがあり、好天時と悪天時の気象状況の差が大きいため注意すべき時期でもあります。コラム記事で解説しました1989年10月8日の立山中高年大量遭難事故のように、油断から低体温症による遭難事故につながることがよくあります。つい最近でも10月6日に栃木県の朝日岳で4人の方が亡くなっています(NHK記事)。

今回、筆者は八甲田山雪中行軍遭難事故の検証のために、10月2日から10月4日にかけて八甲田山周辺を訪れ、初日は車で雪中行軍のルートをたどりました。2日目は八甲田山最高峰の大岳(1585m)に登りましたが、低温・強風で飛ばされそうになるぐらいの悪コンディションでした。

3日目は打って変わって穏やかな天気で、雪中行軍遭難事故にかかわる八甲田山の地形を把握することができました。今回はこれらの取材を通じて得られたトピックスについてお伝えしたいと思います。

図1.八甲田山のパノラマ。右から大岳(最高峰)、井戸岳、赤倉岳、田茂萢岳 (2023.10.03 上毛無岱から大矢撮影)

図2.紅葉が始まった八甲田山。 やや右側の奥に見えるのは岩木山。強風のため右上の巻雲が糸を引くように流されている(2023.10.03 上毛無岱から大矢撮影)

 

1902年1月の八甲田山雪中行軍遭難事故のルートをたどる

新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』、そして映画『八甲田山』で有名な1902年1月の八甲田山雪中行軍遭難事故の気象状況については6月にコラム記事「1902年1月の八甲田山雪中行軍遭難事故の真実/鮮やかに蘇った120年前の天気図と気象状況」で解説していますが、実際に現地を見ることが大切なことだと思い、今回初めて八甲田山周辺に行ってみました。

まず初日の10月2日は新青森駅でレンタカーを借りて、ほぼ雪中行軍ルートに沿って設置されている青森県道40号(青森田代十和田線)を走りました。県道40号は田茂木野、小峠、大峠、後藤伍長発見の地、賽の河原、馬立場、鳴沢第二露営地、平沢第一露営地と小説や映画で出てくる各ポイントを順番にたどることができます。

途中にある八甲田山雪中行軍遭難資料館では、この遭難事故に関するさまざまな資料が展示してあり、八甲田山雪中行軍遭難事故の詳細を知りたい方は是非とも行かれることをおすすめします。この資料館のすぐ横にある幸畑陸軍墓地(図3)には、雪中行軍の死者119名全員の墓標があります。

神成大尉(映画では神田大尉:北大路欣也)、山口少佐(映画では山田少佐:三國連太郎)の墓標もすぐに見つかりました。ただし、説明員によると実際の遺体は、すべてそれぞれの故郷に引き取られたとのことでした。

図3.八甲田山雪中行軍遭難資料館の横にある幸畑陸軍墓地(2023.10.02 大矢撮影)

馬立場の入り口にある銅像茶屋は現在、閉鎖されていましたが、車を駐車場に止めて数分歩くと丘の上に出て、雪中行軍遭難事故記念碑がありました。この丘が馬立場です。資料館の説明員によると、急な登りのため馬が休憩する場所になっていたため馬立場の名前がついたとのことです。

ここには立ったまま仮死状態で発見された後藤伍長(映画では江藤伍長:新克利)の銅像(図4)が立っています。実際に後藤伍長が発見された場所はもう少し青森寄りの所で、道路脇に標識が立っていました。

図4.馬立場にある雪中行軍遭難事故記念碑(2023.10.02 大矢撮影)

この付近の県道40号は平坦な場所が多く、吹雪でホワイトアウトした場合にリングワンデリングしやすい地形であることを実感しました。青森第5連隊が雪中行軍の目的地である田代新湯までのルートを見つけることができず、吹雪の中でビバークした平沢第一露営地を後にして、初日は日本三秘湯の谷地温泉に宿泊しました。

 

映画「八甲田山」でピストル自殺した山口少佐に関する隠された真実

初日に訪れた八甲田山雪中行軍遭難資料館で、これまでの認識を新たにした事実があります。映画『八甲田山』では、生き残った山口少佐が遭難事故の責任を取ってピストル自殺するシーンがあります。

遭難事故の原因は、雪中行軍の指揮官であった神成大尉からの指揮系統の乱れに加え、雪中行軍の2日目に夜が明ける前に行軍を中止してただちに引き返すことを命じた山口少佐の指示が原因の一つといわれています。

しかし事実は違っていました。残されていた雪中行軍の生存者を手当てした記録によると、山口少佐は重度の凍傷で、とても銃を握れる状態ではなかったことが明らかになっています。詰め腹を切らせようとした軍部によるクロロホルム毒殺説もあるようですが(資料館の展示による)、今となっては事の真偽は分かりません。ただ、映画のようにピストル自殺したのではないのは確かなようです。ちなみに、資料館の展示パネル(図5)の中央の後藤伍長は、馬立場で雪中行軍遭難事故記念碑の銅像になっています。

図5.八甲田山雪中行軍遭難資料館の展示パネル(2023.10.02 大矢撮影)

山口少佐が指揮系統を乱したという定説にも、新たに発見された資料によると疑念があるようです。詳細は八甲田山雪中行軍遭難資料館ホームページに掲載されている東奥日報社の新聞記事をごらんください。

これらの状況からすると、山口少佐は任務を全うしたにも関わらず、当時の軍部に遭難事故の責任を取らされたという可能性が浮上してきます。まさに隠された真実なのかもしれません。山口少佐が雪中行軍の2日目に夜明け前に出発の判断を下した、というのも当時の軍部がまとめた「1902 遭難始末 〔本編〕(国会図書館デジタルコレクション)」に基づいています。

 

飛ばされそうな強風の中を八甲田山最高峰の大岳に登る

取材2日目は谷地温泉から酸ヶ湯(すかゆ)温泉に移動して、そこから仙人岱(せんにんたい)を経由し八甲田山最高峰の大岳に登り、赤倉岳を往復した後、毛無岱(けなしたい)湿原から酸ヶ湯温泉に下る計画を立てました。あらかじめ10月2日後半から10月3日は西高東低の冬型気圧配置(気象庁は冬でなければ使いませんが、この時期の山は冬になることがあります)になって低温かつ強風であることは予想できていましたので、防寒を兼ねてレインウェアを新調、愛用のウール山シャツ(学生時代から愛用の40年物でキリマンジャロ登頂2回)、冬山用の目出帽と手袋を持参して備えました。

出発前に谷地温泉で、雲の動きから観天望気で見積もった風速(観天望気で山頂や稜線の風の強さを見積もる方法)は予想通り20m/s、心を引き締めて登りました。樹林帯を抜けた仙人岱付近から風が強くなり、大岳の頂上に近づくに従って、あおられるほどの強風でした。風の息を読んで、風が弱まった時に前進、強まった時には立ち止まって姿勢を低くするという冬山の基本を守りながら高度を稼ぎ、10時20分に無事に大岳頂上に到着(図6)。

図6.ガスと強風の八甲田山最高峰の大岳(2023.10.03 単独行登山者に撮ってもらう)

そこから大岳避難小屋に下って、そのまま赤倉岳ピストンに行こうとしたのですが、さらに風が強まって身の危険を感じたため、避難小屋から100m登った地点で撤退。周回ルートで毛無岱湿原から酸ヶ湯温泉に下山しました。大岳から上毛無岱まで下りると晴れてきたのは残念ですが、上毛無岱では紅葉が始まっていて振り返る八甲田山(図1)、遠くに見える岩木山(図2)の絶景は本当に来た甲斐があったと思います。

 

冬の八甲田山は日本海からの風が直接当たって強風と豪雪になる

取材3日目は、雪中行軍遭難事故の原因の一つである八甲田山周辺の地形を、地図だけでなく実際に上から確認することを目的として、八甲田山ロープウェーで登って田茂萢(たもやち)岳を周回するルートで散策。移動性高気圧に覆われて、前日とは打って変わって無風の好天でした。

ロープウェー山頂駅の展望台からは、岩木山から下北半島を一望することができ(図7)、八甲田山雪中行軍遭難事故の時の西北西の風は、日本海からさえぎられることなく八甲田山に吹きつけることによって豪雪と強風をもたらした(図8)ことが実感できました。

図7.八甲田ロープウェー山頂駅からのパノラマ (2023.10.04 大矢撮影)

図8.八甲田山周辺の地形図 (国土地理院地図に加筆)

冬型気圧配置になると西から北の風が吹くことが多いのですが、八甲田山雪中行軍遭難事故の時は西北西の風でしたので、西側にある岩木山や北北西にある津軽半島の山にさえぎられることなく雪中行軍ルートを吹き抜けたのです。これが八甲田山雪中行軍遭難事故の気象面での大きな要因であることが検証できたと思います。今回の2日目も西北西の風でしたので、同じ理由で強風が吹いたものと思われます。

 

映画「八甲田山」で村松伍長がロープウェーから八甲田山を見下ろすラストシーンは脚色だった

八甲田ロープウェーを使ったもう一つの理由は、映画『八甲田山』のラストシーン近くで村松伍長(映画では村山伍長:緒形拳)がロープウェーから八甲田山を見下ろすシーンが本当かどうかを確かめたかったからです。八甲田ロープウェーの開業は1968年10月で、八甲田山雪中行軍遭難事故から66年後になります。遭難事故の当時、村松伍長が20歳であれば86歳ですので、事実である可能性はゼロではありません。

しかし、八甲田ロープウェーの山麓駅と山頂駅で取材しても事実であることの確認はできませんでした。山頂駅には映画『八甲田山』の写真の展示がありましたが、問題のラストシーンの写真の展示はありませんでした。

事実であれば、もっと大々的に展示されていてもよいはずです。八甲田山雪中行軍遭難資料館の説明員にも聞き込みましたが、おそらく映画の脚色であろうということでした。これらの取材結果から、ラストシーンは映画の脚色だった可能性が高いと思われます。

映画の脚色がよくないと否定するつもりはまったくありません。あの映画のラストシーンは今でも私の目に焼き付いており、映画『八甲田山』のラストを飾る名シーンだったと思います。八甲田山は長年にわたり一度は行ってみたいと思っていましたが、期待にたがわずいろいろと考えさせられることが多く、充実した取材山行でした。

図9.八甲田ロープウェー (出典:八甲田ロープウェー株式会社ホームページ

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プロフィール

大矢康裕

気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会東海支部に所属し、山岳防災活動を実施している。
日本気象予報士会CPD認定第1号。1988年と2008年の二度にわたりキリマンジャロに登頂。キリマンジャロ頂上付近の氷河縮小を目の当たりにして、長期予報や気候変動にも関心を持つに至る。
2021年9月までの2年間、岐阜大学大学院工学研究科の研究生。その後も岐阜大学の吉野純教授と共同で、台風や山岳気象の研究も行っている。
2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年には木村賞を受賞。2022年6月と2023年7月にNHKラジオ第一の「石丸謙二郎の山カフェ」にゲスト出演。
著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社)

 ⇒Twitter 大矢康裕@山岳防災気象予報士
 ⇒ペンギンおやじのお天気ブログ
 ⇒岐阜大学工学部自然エネルギー研究室

山岳気象遭難の真実~過去と未来を繋いで遭難事故をなくす~

登山と天気は切っても切れない関係だ。気象遭難を避けるためには、天気についてある程度の知識と理解は持ちたいもの。 ふだんから気象情報と山の天気について情報発信し続けている“山岳防災気象予報士”の大矢康裕氏が、山の天気のイロハをさまざまな角度から説明。 過去の遭難事故の貴重な教訓を掘り起こし、将来の気候変動によるリスクも踏まえて遭難事故を解説。

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