46歳で世を去った強烈なインパクトを放つ男の人生『酔いどれクライマー 永田東一郎物語』【書評】

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評者=関川夏央

のちに建築家となるクライマー・永田東一郎と著者藤原章生が会ったのは1978年初夏、都立上野高校の山岳部の部室だった。O Bとして部室をのぞいた永田は藤原より3学年上、東大工学部の学生で、東大スキー山岳部員だった。

明朗でおしゃべりな永田は、先輩風を吹かせることなく藤原に接し、「田端の壁」登りに誘った。武蔵野台地上と10m以上の標高差がある切通しの石垣を、永田はクライミングの練習場所としていた。初挑戦の藤原が苦労しながらもそこを登り切ると、負け嫌いの永田はしきりに悔しがった。

二人は親しんだが、その交流は長くは続かなかった。東京育ちなのに人混み、特に満員電車を嫌った藤原が、81年に北海道大学に進んだからだ。藤原は北大山岳部に入り、もっぱら北海道の山に登った。

最初から大学には8年いると決めていたらしい永田は、2年生から部長格となって山行と岩登りに熱中した。谷川岳赤谷川の「幻の滝」ドウドウセン、南硫黄島上陸と登頂などの後、84年、工学部建築科6年生のとき、空を裂く刃のような未踏峰、カラコルムK7(6934m)の遠征を計画し、実行した。実生活では「いい加減」なのに、山に対しては真摯で緻密であった彼は、自らを含むアタック隊員全員を初登頂させた。快挙であった。だが、その山行日記には「普通の頂上だった」とのみ記し、以後ぷっつり山をやめた。 

「山登りの魅力は登頂ではない」と藤原章生は書いている。「命からがら下山したときの自分の変化だ」

ならば永田東一郎は、登頂後の自分に「変化」が見られないことに失望したか。あるいはK7で一生分の登山エネルギーを使い果たしたか。大学を卒業した永田は建築事務所を転々としたのち、フリーとなった。本人そのもののように、しゃべりすぎる印象の建築をいくつか残したが、大半は登山でいえば地味な「荷上げ」に終始した。

一方、北大で資源工学を学んだ藤原は6年かけて卒業、財閥系鉱山会社に就職したが、3年後の89年、新聞記者に転職した。95年からは海外勤務に就き、短い帰国期間をはさんで15年近くを日本不在のままに過ごした。2005年、永田が過度の飲酒癖から46歳で亡くなったことを藤原が知ったのは2017年だった。

藤原がこの本を書いた動機は慙愧の念だけではない。貧乏臭かったが、青年が活気にあふれ、新宿発松本行き夜行普通列車が週末には登山客で満員であった1970年代末から80年代初頭の歴史を、社会で遭難した男を主人公に記述しようと試みたのである。そしてその試みは、年齢の差を超えて痛みをともなう感動を誘うのである。

酔いどれクライマー 永田東一郎物語 80年代 ある東大生の輝き

著:藤原章生    
発行:山と溪谷社    
価格:1980円(税込)

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評者=関川夏央

せきかわ・なつお/1949年生まれ。作家、小説家。ルポルタージュ、エッセイ、小説、マンガなど幅広く文筆活動を展開する。『ソウルの練習問題』(情報センター出版局)をはじめ、著書多数。

山と溪谷2023年6月号より転載)

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