夏山診療所からの提言⑥外傷・障害の診療事例と対策

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登山者にとって、深刻なトラブルとなるケガや病気。雑誌『山と溪谷』2023年7月号より、5つの山岳診療所を取材した企画を紹介したい。今回はちょっとした転倒のほか、落石などでも起こりやすい外傷・障害の診療事例と対策を解説しよう。

取材・文=羽根田 治、イラスト=いちろう、取材協力=油井直子(槍ヶ岳診療所)

夏山診療所とは

登山者のケガや病気に対応するため、夏山最盛期のみ、日本アルプスや富士山などの主な山小屋に併設される診療所。そのほとんどは大学の医学部などによって運営され、医師や学生らのボランティアによって成り立っている。

 

北アルプス・槍ヶ岳の場合(報告・槍ヶ岳診療所)

目立つ転倒や滑落による外傷。肩の脱臼や膝痛による受診者も

台風のような荒れ模様の天気だったある日、中高年男性4~5人のパーティが、三俣蓮華岳方面から西にし鎌尾根をたどって槍ヶ岳をめざしていた。ところが、途中で60代くらいの男性が低体温症にかかって動けなくなってしまった。そこで数人の仲間が先行して槍ヶ岳山荘に助けを求め、出動したスタッフが意識のない男性を山荘へと運び込んできた。

男性は全身ずぶ濡れだったので、低体温症の措置をするため、医師が服を脱がせると、両手と膝に打撲や擦り傷があった。仲間の話によると、彼は悪天候下での行動中に転倒し、足を痛めてしまったそうだ。

それに加え、暴風雨のうえ霧で視界不良だったため、立って歩くことすら困難な状況で、稜線を四つん這いになってそろそろ進むのが精いっぱい……。そうしているうちに、低体温症に陥ってしまったのだった。

その後、男性は意識を取り戻し、体温も上がって事なきを得た。またあるときは、山慣れた様子の80代の年配女性が「膝が痛い」と言って診療所にやってきた。医師が診察すると、膝関節に水が溜まって腫れている状態であったため、水を抜いてテーピングで固定し、痛み止めの薬を処方した。そして「ストックを使って、膝になるべく負担がかからないようにしてくださいね」とアドバイスをしたところ、女性は強い口調でこう言い放った。

「私はストックなんか使わない。ストックを使うことは自然破壊につながるのよ!」

槍ヶ岳の直下、標高3000mの稜線上という特殊な場所柄、診療所にはさまざまな外傷や障害を負った登山者がやってくる。

全身傷だらけになって駆け込んできた男性は、北鎌尾根を登山中に、つかんだ岩が剥がれて足にぶつかり、数メートル滑落してしまったと医師に語った。槍ヶ岳の山頂直下の垂直ハシゴでは、外国人登山者がホールドをつかんで体重をかけた拍子に肩を脱臼してしまうという事故もあった。どちらのケースも、診療所で処置をしたのち、「自力で歩ける」と言って、救助を要請せずに下山していった。

そのほか、診療所のすぐ近くで男性が転倒し足首を骨折した事故、東鎌尾根で50代女性が滑落して脛骨と腓骨を骨折する事故など、転倒や滑落による外傷事例も多い。

険しい岩場が続く北アルプスの稜線では、転・滑落や転倒による事故が多発

 

外傷・障害の予防・対処法

気持ちを引き締め、緊張感をもって行動しよう。救急法の知識は必須、ファーストエイドキットも必携だ。

外傷・障害はなぜ起こる?

登山中の外傷事故は、転倒や転・滑落、落石などが原因となって起きる。その傷の深さは、かすり傷程度ですむ軽微なものから命に関わる重傷まで、実にさまざまだ。外傷事故の多くは、登山者自身の油断や不注意によるものなので、気を緩めずに緊張感をもって行動するしか予防策はない。また、登山中に膝の痛みが気になる人は、登山の知識がある整形外科医に診察してもらうのが望ましい。

3つの主な原因

●転倒、転・滑落
●落石
●膝のトラブル


■槍ヶ岳診療所における外傷・障害患者の状況(平成24~28年)
(出典=『臨床スポーツ医学』Vol.34)

外傷・障害の予防法は?

①油断せず慎重に行動する
転・滑落や転倒、落石による事故を防ぐには、各自が慎重に行動するしかない。ヤセ尾根や岩場などの危険箇所はもちろん、安全そうに見える緩斜面の登山道や木道などでも事故は起きている。危険箇所を通り越しても油断は禁物。リスクがあるところでは決して気を抜かないように。

②午後の時間帯、下りに注意
遭難事故は、午後の時間帯の下りで起こることが多い。朝から行動してきて疲労が蓄積していること、行動終了が間近となり注意力が散漫になっていること、膝に負担がかかり踏ん張りが利きにくいことなどが、その要因だ。もうすぐ下山できるというときこそ、今一度、気を引き締め直そう。

③テーピングで予防
登山中、特に下りで膝が痛くなる人は、サポーターや機能性タイツの着用、出発前のテーピングなどによって予防する。ふだんのトレーニングで膝まわりの筋肉を鍛えておくのも効果的だ。膝関節などの疾患が疑われる場合は、整形外科などで診断・治療してもらうことをおすすめする。

外傷・障害の対処法は?

①応急手当てについて学ぶ
傷病者の苦痛を和らげ、傷や病気を悪化させないようにするために必要不可欠なのが応急手当ての知識。各種外傷や出血、低体温症、熱中症、高山病などの応急手当て、心肺蘇生法、AEDの使い方などは最低限学んでおきたい。山岳団体や全国各地の消防署、日本赤十字社などでは救急法の講習会を随時開催しているので、参加してみるといい。

②ファーストエイドキットを携行する
登山中の傷病に対処するための薬品類をコンパクトにまとめたファーストエイドキットは、個人装備として常に携行すること。救急絆創膏や包帯類、滅菌ガーゼ、テーピングテープ、携帯用ハサミなど基本的なアイテムのほか、持病に応じて内服薬やサポーターなどを用意する。すぐに乾く手拭いは包帯代わりにもなってオールマイティ。三角巾を持つなら使い方を学んでおくこと。傷を洗浄するためのペットボトルの水、虫対策や日焼け対策のための薬なども必携だ。

③場所によっては救助を要請
登山中の外傷や障害でいちばん問題となるのは、ファーストエイドキットを使って応急手当てをしたあとに、自力で下山できるかどうかだ。たとえば手足を負傷し、移動そのものに支障が生じると、さらなる危険をも招きかねない。ダメージの程度と今後の行程を考慮し、無理そうだと判断したら山行を中止し、救助を要請することも考慮しよう。

 

コラム

打撲や捻挫に湿布はNG?

打撲や捻挫などの外傷の応急手当てで、湿布を貼る人は多いのではないだろうか。腫れた患部に湿布を貼れば、ひんやり冷たく感じるので、アイシングと同じ効果があるように感じる。しかし、湿布に用いられている薬は消炎鎮痛剤で、それを経皮吸収させて腫れや痛みを緩和させるためのもの。ひやっと感じるのはメントールが配合されているためで、冷やすことを目的とするものではない。それを誤解して湿布を貼ると、皮膚がかぶれたり、ただれたりすることがあり、よけいなトラブルを増やしてしまう。打撲や捻挫による腫れを抑え、痛みを緩和するのなら、水か氷を使って冷やすか、圧迫固定をするのがよりベターだ。なお、温湿布についても同様で、唐辛子エキス配合により熱く感じるが、温める効果が主ではない。

 

診療所プロフィール

槍ヶ岳診療所
●設立:1950年
●所属:東京慈恵会医科大学
●開設期間:7月中旬〜8月中旬
槍ヶ岳の山頂直下、標高3080mの槍ヶ岳山荘に併設しており、“雲の上の診療所”とも呼ばれている。「山の遭難者や傷病者を助けたい」という慈恵医大山岳部員の思いから始められ、70年以上の長い歴史をもつ。スマホアプリを活用した遠隔診療支援システムを導入し、同大附属病院と連携して重篤なケースにも対応する

山と溪谷2023年7月号より転載)

プロフィール

羽根田 治(はねだ・おさむ)

1961年、さいたま市出身、那須塩原市在住。フリーライター。山岳遭難や登山技術に関する記事を、山岳雑誌や書籍などで発表する一方、沖縄、自然、人物などをテーマに執筆を続けている。主な著書にドキュメント遭難シリーズ、『ロープワーク・ハンドブック』『野外毒本』『パイヌカジ 小さな鳩間島の豊かな暮らし』『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか』(共著)『人を襲うクマ 遭遇事例とその生態』『十大事故から読み解く 山岳遭難の傷痕』などがある。近著に『山はおそろしい 必ず生きて帰る! 事故から学ぶ山岳遭難』(幻冬舎新書)、『山のリスクとどう向き合うか 山岳遭難の「今」と対処の仕方』(平凡社新書)、『これで死ぬ』(山と溪谷社)など。2013年より長野県の山岳遭難防止アドバイザーを務め、講演活動も行なっている。日本山岳会会員。

夏山診療所からの提言

雑誌『山と溪谷』2023年5月号からの短期連載「夏山診療所からの提言」より転載。夏山シーズンを前に、主な傷病の事例、および予防法や対処法を解説する。

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