【書評】当時の常識を覆した34年前の裁判に迫るノンフィクション『天災か人災か?松本雪崩裁判の真実』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

評者=米山 悟

「雪崩は人災だった」。34年前の雪崩死亡事故裁判について、その一部始終をまとめたノンフィクション。1989年3月、北アルプス遠見尾根の雪山登山講習会で高校教諭・酒井耕が亡くなる雪崩事故があった。長野県教育委員会の主催で、初心者の高校山岳部顧問と生徒が対象だった。「雪崩は天災」とする県に対し「雪崩は予見できた人災」として過失責任を県に求め、酒井の母・三重が翌年訴訟を起こした。5年後の11月、原告側が勝訴。「山のベテラン」の認識不足と準備不足を登山の素人の原告側が雪崩の学習をして論破していく。非常に画期的な判決だった。取材は随分後からというのに、臨場感ある裁判シーンで流れを追いやすい。三重や中島弁護士の育ちや経緯も詳しく書かれ、なぜこの裁判を勝つことができたのかに納得がいく。

登山界のベテランたちでも、当時は雪崩の誘因の最新知識に無知で、経験と勘に頼っていた。死亡事故は運が悪く、山での事故は共同責任であり、訴えるなんて非常識だったことを思い出す。法廷で「経験者としてできることはやった」「そんなことを言ったら山なんか一歩も登れなくなる」という旨の被告側の発言は、世論とも外れていなかった。

当時、科学的な手順で判断する新田隆三、中山建生の雪崩講習会や、ビーコンの普及を図る北大の阿部幹雄、樋口和生、福沢卓也による講習も知られるようになり、雪崩対策が登山者の間に広がり始めた変わり目の時だった。

私自身も彼らの事故防止の取り組みに大いに関わっていた上に、酒井耕とは高校の同級だった。それなのに、この本を読むまで裁判の詳細を30年も知らずに過ごしてきた。そのことが読後感として大きなショックだ。なぜ私はこの裁判にあまり関わらなかったのか。

今思うと「リスクを受け入れた自由な山登りを、安全管理のためとして山の素人たちに制限されてしまう」と心の底で警戒していたのだろう。自立的な登山と、初心者の安全確保とで話は全く違う。その点を今ほど区別して考えていなかったと思う。当時の私は、雪崩の誘因に関しては最新知識を持っていたのに、責任論に関しては被告側と大差なかったのだと、今になって恥ずべき過去の感覚を思い起こす。

酒井耕の高校、大学の友人・西牧岳哉はずっと三重の訴訟を支えた。青年期一番の親友を失った気持ちや、息子を理不尽に失った母親の気持ちなど、30年前の私には正直わからなかった。

判決の95年は震災とテロのあった年だ。リスク管理や組織の安全管理責任はこの頃から変わっていった。だがその後も初心者講習の事故は続いた。2000年大日岳、17年那須の雪崩。今こそ読む価値のある本。

天災か人災か?松本雪崩裁判の真実

天災か人災か?松本雪崩裁判の真実

泉 康子
発行 言視舎
価格 2,700円(税込)
Amazonで見る

評者

米山 悟( よねやま・さとる)

1964年生まれ。NHKカメラマン。北海道大学在学中は山岳部に所属。自身のサイト「やってみよう!イグルー登山」では、雪のブロックで作る家「イグルー」の普及に努める。

山と溪谷2023年9月号より転載)

登る前にも後にも読みたい「山の本」

山に関する新刊の書評を中心に、山好きに聞いたとっておきもご紹介。

編集部おすすめ記事