第5回 軽装で登った五竜岳での雪と霰。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

奈良男日記のタイトル

一万日連続登山を目指し、達成目前で力尽きた東浦奈良男さん。昭和35年、35歳で山に目覚めた奈良男さんは、昭和38年に入ると、前回紹介した大台ヶ原山に次いで大峯山へ二度、北アルプスの常念岳、北・西穂高岳、立山、白馬岳、燕岳、富士山へ5回など、仕事のない日曜日を利用して北アルプス方面へ精力的に足を運んだ。その全てが、伊勢からの日帰りだ。今回は、秋口に向かった五竜岳の山行を紹介する。

前回の「奈良男日記」:第4回 進退を決める「三脈」

ページの下段に張られた、唐松岳での遭難を知らせる記事の切り抜き

昭和38(1963)年9月22日の日記より

五竜岳

頂上寸前に善退す
平地は晴 山は曇 時雨 あられ 風強し
何くそも限界ありと知る

降りきても長蛇を逸し腰おろす
神城駅外 雪はふりつつ
その感じもなく、いきなりの胴ぶるい止まず。目前の頂上、ガスの中に敗退す。しかれども、敢斗よく筋金入りの足は短時間で五竜山荘に達したり。以て、瞑すべし。想像を絶した不意の急変。それも、姿なき気塊の冷変。おそるべき、おそるべし。しかし、予感どおり、五時間で登頂できていたら、唐松をへて、ケーブルにも間に合っていたはず。天水を悲しむあるのみ。山は荒れて、野は晴れた今日、一日虹の消えざりし不吉さ、笠雲あるかぎり、行動はやめた方よしと知る。笠雲中は、風つよく、あられか雪ほとばしり、寒冷甚し、いきなりにくるふるえを以てみると、ソーナン死も死の間近まで本人がそうと知らざるゆえにソーナンするのであるまいか。急変、急寒、急にくる、難。どうも気の冷なるもの雲の寒なるものが急襲するからか。うす着か、神さまのお知らせか。五竜荘より強風、あられをついてガス中に突入した。あの一歩々々、跡をしっかりふみつけながらいったのに。一点、コース雪にかくれ、岩は凍り、もし登頂しても下山中ガスのため迷うやもしれず。凍る岩に滑落、五竜の懐深く永遠の去らばをしたかもしれなかった。この恐れは十二分に待っていたのだ。

こんな目に会ったのは初めて。現実を絶した自然の威厳が骨身にしみとおったのだ。目に物みせられたのだ。あと十数分にして、頂上をふみつけたこの身だったのに。いや、数分だったかもしれぬ。あの寒冷感は、めったに味わえぬ、貴重なケイケンとなるだろう。何物をか心に宿さしめただろう。待てばこんどのチャンスありだ。最高をこわした、歩速いよよ錬りみがいて、こんどこそ。もっと早く。より安全に、より難しいところでも、達してくれよう。遠見コースは、泥ンコだらけで、芳しくなし。小遠見までがこのコースの山ばだ。あとは上り下りといってもさほどでもなし。笠雲なかりせば、白馬、鹿嶋、五竜と、眺めはよいと思われた。終日、雲を脱がぬでは、しょうなし。一時間半で遠見小屋、これで、見当つく。しぐれ時々おそいしつこい山の雨だ。山荘にのりだすと、がぜん風当り激しく登山者は動かないといった。五竜主人の言、尤もなり。ふみあと、一歩もない。縦走路、これは、昨日よりか朝からか、それだけ荒れていたわけなり。小屋へよっていれば、恐らく止められていただろう。軽装はたしかに早い。逃げるのも早い。ふるえるのも早いというわけか。重装者はおそく、先頭は、西遠見、手前で会う。この人たち十五、六人明日はさぞ、満足な登頂ができてうらやましい。下山中、うなり声をきき、ぶきみな物である。なぜ、山上部のみ、雲晴れないのだろう。残念なり。たしかに、俺の足も筋金入りとなった。これで、行けないとあきらめていた山山へも羽をのばすことができそうだ。下山タイムでのぼれるとは我ながらうれしいではないか。

 松本駅の千人余の客には、初めてみて、一驚。去年はこんなことなし。おかげで一人行と覚悟した初城コースへも十五、六人きてくれて、心強かったが、先行するので同じことなり。山は荒れてるといった小母さん、さすがなり。一日の差で敗退となりし。情報ききに釣人みつけしも、いつもきてくれれば吉。敗れても全く悔いなき快足、案ずるよりも……一時は山は今年はやめと思いついてしまったが、回復につれて、行かんがなの心気、起りそむ。(一収穫=吸足同時。鼻息を吸うと同時に足をのぼりこむ。)脱線のおかげで、十二時すぎ名古屋着す。6(時)58分神城→8(時)30分遠見小屋→11(時)13分五竜山荘→?バックして12(時)4分山荘→3(時)47分神城駅。虫の知らせよありがとう。もしも山荘によっていたら、山の恐ろしさも体験なしにすんだろう。止められるにちがいないから。この点ぶじに帰れたからこそ、死の刄に立ち向っていったその実感は、将来に大きなプラスとなる。山荘の人に、わが早さの程も知りたかったのだが。まあよし。それだけの実力を確に持っているるがよいのだ。その土地の人も、何十年のぼっていても冬山は行く気がしないとさえいうが、その恐ろしさをちょっぴり味わったわけか。それにしても、一瞬にして、体熱を奪い去り、胴ぶるいとなった凄さ。その不意打ちにはなすところなし。よくぞバックしたものだ。岩の凍りに滑落か。ガスと雪に迷うのは必至なのだ。
ナムアミダブツ。

笠雲の中降りてきて虹低し

  るる
荒れる山を脱し
車窓の灯に搖れて
しみじみと噛む一枚パン

荒れる山を脱し車窓の灯にゆれて
食パンの紙しみじみ開く
叩きつく風に霰に雪の道
凍れる岩に視界開けず
笠雲の中新雪の道細し
笠雲の中荒れ狂う風雪に
淋しく強く登る一筋
笠雲の中荒れ狂う秋の山
笠雲を下る虹より高く居て
笠雲へ登るぶきみな虹消えず
笠雲を下る虹より高く踏み
笠雲を下る眼下に虹の橋
笠雲へ登る山には秋なしと
雲荒ぶ稜線山に秋はなし
笠雲へ登る一筋道たぐり 笠雲へ登る不気味な虹消えず

果して唐松へ向かった鎌倉の人あり。二十一日とすれば、二十二日でさえあの稜線の荒れもよう。恐らく凍死? 否、八方尾根のどこかで頑張っていて下さいよ。あの虹の不吉さ。二重になった虹のふしぎ。遭難の花束でなかれかし。俺も一髪の渕に立っていたのだなあ。未知の友よ 助かってくれよ。ばんばれよ。

奈良男さんは、日記の中で自分の装備を「軽装」と記している。この日記の日から約43年後にぼくが初めてお会いした時も全く同じ格好だったのだが、それは印刷工の仕事で着る綿の作業着なのだ。雨の日でもビニールの合羽も使わず、傘から剥いだナイロンの端を首にくくりつけただけで、アウトドアメーカーの装備は、モンベル初期モデルのかなりくたびれたジャケット一つだけだった。当然、このころはモンベルはまだなく、セーターも持って行っていなかったと思われる。

その状態で尾根は雪が絡み、強い風にさらされ、霰も降るというのだから、身の危険を感じて当然だ。二重の虹が、天気の急変を物語っている。撤退せざるをえない状況でも、体力的には自信満々なところは、ある意味、冷静な判断が取れているということか。ちょっと負け惜しみのようにも取れるから面白い。

数々の短歌や俳句は遂行も含めて思いのままに記しているため、奈良男さんが現場で何を見て、何を感じていたかが端的に表されていて興味深い。

日記の下段には、「北ア唐松岳で帰らず」の見出しで、鎌倉市に住む27歳の男性が20日、23日帰宅の予定でひとり唐松岳に入り、25日になっても下山しなかったため、大町署へ捜索願が出された記事が貼られている(上の写真)。記事の上には、手書きで、「無事をただ祈る」の文字。奈良男さんが隣の五竜岳に入ったのは、捜索願が出された次の日で、捜索の真っ最中だったと思われる。

注:日記の引用部は誤字脱字も含めて採録しますが、句読点を補い、意味の通じにくい部分は( )で最低限の説明を加えています。

 

イベント情報

秋の鳥海山(写真=吉田智彦)

ギャラリー「ego – Art and Entertainment Gallery」にて、吉田智彦氏がトークイベントに出演!
詳細は会場の公式サイトにて

■トークイベント「カメラマンの履歴書」概要

日時:2019年1月8日(火)19:00~(開場 18:30)
会場:日本橋 Ego art and entertainment gallery
  ( 東京都中央区日本橋本町4-7-5)
参加費:​2,000円〜

「ego – Art and Entertainment Gallery」公式サイト
https://egox.jp/2018/12/11/rirekiyoshida/

また、写真展を2019年2月に開催決定! 詳細は後日発表。

『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』
著者 吉田 智彦
発売日 2013.06.14発売
基準価格 本体1,200円+税

amazonで購入 楽天で購入

プロフィール

吉田 智彦(よしだ ともひこ)

人物や旅、自然、伝統文化などを中心に執筆、撮影を行う。自然と人の関係性や旅の根源を求め、北米北極圏をカヤックで巡り、スペインやチベット、日本各地の信仰の道を歩く。埼玉県北部に伝わる小鹿野歌舞伎の撮影に10年以上通う。2012年からは保養キャンプに福島から参加した母子のポートレートを撮影し、2018年から『心はいつも子どもたちといっしょ』として各地で写真展を開催。福島の母子の思いと現地の実状を伝えている。
Webサイト: tomohikoyoshida.net
ブログ:https://note.mu/soul_writer

奈良男日記 〜一万日連続登山に挑んだ男の山と人生の記録〜

定年退職した翌日から、一日も欠かさず山へ登り続けて一万日を目指した、東浦奈良男さん。達成目前の連続9738日で倒れ、2011年12月に死去した奈良男さんの51年にも及ぶ日記から、その生き様を紐解いていく。

編集部おすすめ記事