アッパームスタン入域、慧海が滞在した村ツァーランへの道
河口慧海の足跡を辿って、2年ぶりにアッパームスタンへと足を踏み入れた稲葉香さん。カリガンダキを北へ、かつてチベットとインドとの塩の交易路として栄えた道を歩く。今回は、カグベニからチレまでの道について。
★前回記事:カリガンダキを越えて、ムスタンとドルポの境目カグベニを目指す
8月25日、カグベニからチレまでの道のり
ムスタンとドルポの県境となるカグベニ。アッパームスタン(ムスタン北部、ローマンタンに通じるルート)への入域地点で、ここから先は特別な許可証が必要になる。エージェントの手違いで間違った許可証が発行されていたのだが、交渉の末、なんとか計画日数分の許可証を手に入れ、無事アッパームスタンに足を踏み入れることができた。
ここには、河口慧海が10ヶ月滞在していた村、ツァーランがある。私たちは次の目的地に向けて歩き出した。「お邪魔させていただきます」と、その土地の人々と大地に挨拶し、神々に祈る。そして、カリガンダキ渓谷沿いを北上。人生2度目のアッパームスタントレッキングに心が躍る。
カリガンダキの上流部は、アンナプルナ連峰とダウラギリ連峰に挟まれ、深くえぐられたような地域になっており、谷床と周囲の山との高度差が6000mほどある場所もある。
8月末のカリガンダキ川は水量が多く、前回渡渉した時にはなかった橋が新たに架けられていた。この時期は強烈な風が南から吹くと聞くが、どうだろうか。朝の10時を過ぎた頃には、荒れ狂うような風が、容赦なく吹きすさんでいた。
タンゲ村のリンゴの木、辺境の洞窟群
歩き始めてしばらくして、タンゲという村に到着した。
村を歩いていると突如リンゴの木が出てくる。これは農学者の故・近藤亨氏が栽培を確立させ、広めたリンゴの木のひとつ。ネパールに詳しい人ならご存知だろう。こんな乾燥した大地で、よくリンゴ栽培を成功させたものだ。
タンゲを越え、かつてチベットとインドとの塩の交易路として栄えた「塩の道」を歩く。どんどんと北上していくと、まるで大聖堂のような岩壁が見えてきた。
そこには、住居として使われていた洞窟が数えきれないほどあり、クライミングしないと辿りつけないほどの高い場所にあるものも多い。この辺りの洞窟の謎を登山家と考古学者たちのチームが調査し、2012年に『ナショナルジオグラフィック』で「ムスタン王国 謎の洞窟群」として発表。その発見に世界が注目した。
慧海が通った道、カグベニ〜ムクチナート〜サマル
慧海はこの道を通った際、カグベニから東にあるムクチナートへ行き、巡礼した後、カリガンダキまで戻り、ツァーランまで馬を使ったそうだ。その際、カリガンダキの河川敷で野宿し、北西の村サマルまで一気に移動している。
私は、今回の旅ではサマルまでは歩かず、途中にある村チレで一泊することにした。過去に慧海ルートとして、2004年はムクチナートまで歩き、2014年に初めてムスタンに入った。今は、チベット国境まで車道が開通してしまったこのルート。だから全然感覚が違うだろうし、整備されたトレイルがなかった当時とは景色も違うが、彼が見ていた風景を少しでも味わいたかったのだ。
慧海は『チベット旅行記』(講談社学術文庫)に自らの記録を残している。1958年に川喜田二郎氏をリーダーとする西北ネパール学術探検隊が調査した結果、慧海の旅行記は正確で鋭い観察記録であったことが報告されている。
しかし、私には古典を読み解くことが難しかった。そこで調べ尽くした結果たどり着いたのが、故・大西保氏のブログ『台風日記』だったのだ。何度もネパールを調査する大西氏の記録は、専門家ではない私でも、現地の様子を面白いほど想像することができた。
私はネパールを歩く際、現場で『チベット旅行記』、『河口慧海日記』、『台風日記』を何度も読み返した。それでも理解するには時間がかかる世界だったが、何度もドルポに通うことで、やっと、少しずつ彼らの見てきた世界が分かってきた。そんな感覚を覚えるたびに、行けば行くほど奥が深い世界だと思うのである。
プロフィール
稲葉 香(いなば かおり)
登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。
オフィシャルサイト「未知踏進」
大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる
2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。