登山に「リスク」があるのは何故か? リスクを理解することが、遭難対策への第一歩

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認知心理学を専門として、空間認知、ナヴィゲーション、リスク認知を研究する著者が、遭難から身を守るための実践的なリスクマネジメントを伝授!『遭難からあなたを守る12の思考』(山と溪谷社)では、リスクに対応するための「考え方」、「思考法」をわかりやすく解説しています。本書より一部を抜粋して紹介します。

写真=星 武志

魅力の背後にリスクあり

リスクは(risk)望ましくない状態が発生する可能性、という意味の英語です。由来はラテン語の「リスカレ」ですが、航海時の障害を意味しているそうです。航海のように、積極的な行為の結果として生じる損害の可能性、それがリスクという言葉の原義だったのです。

現代英語の「リスク」に、挑戦的な行為に伴う損害の可能性という側面が依然強く残されているのも、この言葉の歴史的経緯と無縁ではありません。リスクを理解し、適切に制御することの出発点もここにあります。

山のリスクも積極的な行為と裏腹です。皆さんはなぜ山に登るのでしょうか。豊かな自然や豊かな眺望、さわやかな空気や日常の喧騒を離れた静けさなど、山に何らかの魅力を感じているから、つらい思いをしてまで山に登るのでしょう。しかし、その魅力とリスクとは裏腹です。喧噪がないということは人が少ないということです。そのため、いざという時に助けてくれる人もいません。自然に恵まれている半面、都会で享受できるサービスを受けることはできません。疲労困憊しても、自分を運んでくれる公共交通はそこにはありません。

豊かな眺望やさわやかな空気もリスクと裏腹です。標高が高ければ気温は下がり、低体温症のリスクが生まれます。高いからこそ眺望が得られますが、高さは滑落や転落の原因です。また、山に風が吹けば上昇気流が発生し、発生した雲が悪天候の源となります。山の高さもまた、魅力であると同時にリスクの源でもあるのです。リスクと魅力は裏腹の関係にある、これを「リスクの両義性」と呼びます。山の魅力を享受する以上、そのリスクを避けることはできません。

 

山は未管理である

大学の図書館前を歩いている時、ふと見上げると折れた木の枝が他の枝に引っかかっていました。落ちてくるとけがにつながるような枝です。しかし、数分後には図書館の職員によって撤去されていました。このように日常空間では、危ない状況があったとしてもすぐに対応がなされます。法令等によって、起こるかもしれない事故を回避する責任が施設の管理者にはあるからです。

管理者に事故防止の責任が負わされるのは、大学に限りません。都市にはそれぞれの空間に管理者がおり、施設の瑕疵によるけがや死亡事故には法令により重い責任が課せられます。それでも危険な場所には、立ち入り禁止が明示されています。法令や事故を起こしてはならないという倫理観によって、人工的な空間は管理されているのです。

建物というシェルターによって、人は雨露や低温・高温による不快や危険も部分的に管理しています。都市であれば、至るところに利用可能なシェルターがあります。暑ければ、ファストフード店や喫茶店に逃げ込んで涼むことができます。都市の環境が管理されることで、都市から危険はなくなりました。それは安心・安全な暮らしを享受するためですが、私たちはそれに慣れすぎてしまいました。

私たちが登山をする環境はどうでしょう。登山者の多い登山道はかなり整備されている場所も多いでしょう。しかし、岩場や崖が道のすぐ脇にあっても管理されていないのが普通です。さらに、舗装されていない登山道では、転倒のリスクが高まります。転落防止の柵もありません。難易度の高いことで知られる槍ヶ岳と穂高の縦走路に柵を整備すれば、滑落事故は皆無になるかもしれません。しかし、その時その縦走路は挑戦の魅力を失ってしまうでしょう。

山は未管理であるからこそ、挑戦と達成感という魅力が生まれるのですが、それは事故につながる環境と裏腹です。岩場や崖といった事故の原因となるものをリスク源(分野によってはハザード)と呼びます。未管理ゆえにリスク源が遍在している、それが自然なのです。

 

リスクとは不確かさの影響

未管理の自然の中では、状況は常に変化し、多くのことが不確実です。変動が確実に予測できるものであればそれに備えることは簡単です。天気予報で100%雨であれば傘を持って出歩くでしょう。風雨も確実に強まるという予報が出ていれば、山登りを控えるでしょう。しかし、降水確率がそれほど高くなく、実際には雨が降らないかもしれない不確実さがあるからこそ判断に迷い、そこにリスクが生まれるのです。

管理状態がよくないと変動が大きくなるのは私たちの体も同じです。若いころは夜行電車で登山口まで出かけても、なんとか山に登るくらいには元気だったことでしょう。しかし、加齢とともに体調の変動は大きくなりがちです。ちょっとした体調不良のため、予想外に疲労を感じたり、歩行時間が長くなることもあります。都市なら、歩き疲れたら公共交通機関が利用できます。しかし、山の多くの場所ではそれができません。変動に対応する手段が限られ、それが命にもかかわるリスクとなりえるわけです。

リスクマネジメントの国際規格であるISO31000(リスクマネジメント規格活用検討会・編著、2010) では、リスクは損害ではなく、「目的に対する不確かさの影響」と定義されています。不確かさによって目的の達成に影響が出る可能性がある状況がリスクであり、それを制御する方法がリスクマネジメント、という位置づけです。

厄介もののように思われるリスクは、たまたま生じるのではありません。それは目的をもち、利益を求める人間活動に不可避に存在します。日常空間はそれを制御するために、高度な管理がなされています。一方、自然は未管理であるがゆえに不確実性を持ち、そのため予期せぬ影響が、時に大きく拡大します。これが山のリスクの正体です。

登山には、いや人間生活にはリスクが根源的につきまとうことを考えれば、「安全に」活動するということはリスクを避けるのではなく、リスクのもとでいかにしてその影響を許容できる範囲に収めるか、ということになります。山のリスクマネジメントの出発点は、そのようなリスクの理解にあります。

 

『遭難からあなたを守る12の思考』

他人事ではない山での遭難。
遭難しないために重要なのは、潜んでいるリスクをどうとらえ、見えているリスクをどう評価するか、です。
知っておくべきリスク管理の基本をこの一冊で身につけましょう。


『遭難からあなたを守る12の思考』
著: 村越 真、宮内 佐季子
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【著者略歴】

村越 真(むらこし・しん)

日本におけるオリエンテーリングの第一人者。静岡大学教育学部教授。専門は認知心理学。
ナヴィゲーション、リスク認知等を研究するとともに読図やリスクマネジメント、山岳遭難対策講習・講演などを通して研究成果を実践に還元している。
現在もオリエンテーリング、マウンテンマラソンなどでリスクマネジメントの実践を行う。
著書に『山のリスクと向き合うために』 (東京新聞出版局)、『山岳ナヴィゲーション』 (枻出版社)、『山岳読図ナヴィゲーション大全』 (山と溪谷社)など、多数。
国立登山研修所専門調査委員、(公社)日本オリエンテーリング協会業務執行理事

宮内佐季子(みやうち・さきこ)

1975年生まれ。公益社団法人日本山岳ガイド協会所属。
1998年、アドベンチャーレースのプロチーム「Team EAST WIND」に加入し、世界各地のレースを転戦。
1999年、エコチャレンジ(パタゴニア)15位・日本人初完走、2000年、レイド・ゴロワーズ(チベット・ネパール)14位などの成績を残す。
その際、地図読みの必要性を痛感し、2001年から競技オリエンテーリングに取り組む。2004年度全日本オリエンテーリング選手権優勝。
2004年、国体山岳縦走競技優勝(京都府成年女子代表)。その後、自転車競技シクロクロスに参戦、2012・2013年、全日本シクロクロス選手権連覇。
2019年11月~2020年3月に第61次南極地域観測隊員として活動。

 

リスクから身を守る方法を身につけてこそ、山の魅力が享受できる――「はじめに」より

船は港にいる時が最も安全ではあるが、それは船が作られた目的ではない

J・A・シェッド

前頁の言葉は、冒険教育の中でよく引用される作家J・A・シェッドの小説の一文です。港から一歩出れば、船には悪天候や暗礁が待ち受けています。かつてなら海賊に襲われることもあったでしょう。しかし、航海に出ることで巨万の富を築くこともできれば、自分の可能性を開く新天地に到達できることもあるかもしれません。港から出なければ確かに安全ですが、同時に航海によって得られた魅力をすべて諦めることになります。

登山も同じです。山には多くの魅力があります。家に留まる限り絶対に事故は起こりませんが、同時に登山の魅力を味わうこともできません。コロナ禍では、世界の山を見せてくれるウェブ映像は救いになりましたが、本物の山の魅力にはかないません。何より、苦労した末に登頂した達成感や困難を乗り切ったという心に残る思い出は得られません。困難やリスクがあってこそ、山登りは思い出深いものになるのです。

一方で、船は沈没するために作られたわけでもありません。登山も同様で、遭難するために山登りに出かける人はいません。日本人初の8000m・14峰サミッターの竹内洋岳さんも、『登山の哲学』という本の中で、「登山は確かに『死』が身近に感じられます。だからといってクライマーたちは『死んでもいい』と思って登っているわけではない」と語っています。山という魅力ある場を享受しつつも、決定的なダメージを回避するにはどうしたらよいのでしょう。これが本書のテーマです。

ただし、本書は、これまで登山のリスクマネジメント本の多くがそうであったような、「べからず集」や「サバイバル術」ではありません。遭難者には何らかのミスがあったはずですから、後から「……すべきでなかった」というのは簡単です。しかし、次の遭難を防ぐには新たな行動を導くことのできる筋道立った考え方が必要です。一方、サバイバル術が必要な場面とはできれば避けたい状況であり、あくまで最後の手段です。

窮地に陥る前にリスクに対処するためには、それほど危険があるとは感じられない場面での対応が必要になる場合があります。本書のポイントは、それを筆者の経験談や思いつきでお示しするのではなく、世界を代表するクライマー、日本を代表する山岳ガイド、さらには、過酷な環境で隊員の安全を守る南極観測隊の安全管理担当の方々へのインタビューと、筆者の山岳のリスクに関する多くの認知心理学的研究をベースにお示しすることです。

本書を手に取る多くの方々は、冒険家や高所クライマーのようなリスクの高い登山とは無縁でしょう。しかし、山に入れば都市とは異なるリスクが待ち受けています。年間約3000人が山で遭難し、その約10%が死亡・行方不明なのです。その割合は登山者数に比すればわずかです。しかし、私たちの調査によれば、北アルプスに入山する人の約4分の1がその日のうちに、ひやっとする経験をしています。遭難しなかったのは運がよかっただけかもしれません。高所クライマーたちの方法には、そのちょっとした運を排除するヒントが隠されているのです。

港の外に出ても沈没しないために、人類は船を丈夫にし、悪天候を予測する方法を開発し、航海術を編み出しました。現代社会の繁栄も、異国を旅するという楽しみも、これらの努力の延長線上にあります。リスクから身を守る方法を身につけてこそ、山の魅力が享受できるのです。それに加えて、困難を乗り越えて山頂に立つことが山の楽しみであるように、山のリスクと付き合うことも山の面白さの一つだということも、本書を通してかすかにでも感じていただければ幸いです。

 

※本記事は『遭難からあなたを守る12の思考』(山と溪谷社)を一部掲載したものです。

 

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