慧海ルートの核心部へ――。聖地シェー山の先へと足を進め、ニサルにて思いを巡らせる

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海師の足跡ルートを辿るために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。2016年に行った遠征を綴っている本連載も、いよいよ佳境へ。ドルポの最奥地に入り、さらに核心部へと進む。

 

9/24 シェー山~サルダン (4051m) 

シェー山からサルダンに向かう工程を紹介する前に、「河口慧海日記(奥山直司編)」の1900年7月1日の日記を一部を抜粋して紹介したい。

この日、初めて塗り潰された箇所がある、それは七文字ほどの短いもの。

「ヤク」という細字の読み仮名が恐らく消し忘れて残っているので、その上の墨で塗り潰された箇所にはチベット文字でヤクと記されてることがわかる。ヤクの文字が出てきたことで、素人がヤクを扱えない、だから慧海はヤクを雇っていたと考えることにしたようだ。

この日、慧海は荷物をヤクに載せ、ナムグン・ゴンパには立ち寄らずに、渓流を渡って対岸を上る頃から風雨が激しくなり、午後6時前、サルダン村に到着。疲労のために、喫茶と読経だけをして眠る。次の日もサルダンで身体を休めたようだ。

この慧海日記が発見されるまで、慧海のヒマラヤ越えの核心部は案内人と別れてから8貫目(約30kg)ばかりの荷物を背負い、野宿を重ねながら、歩いて標高5000m以上の峠を越えるという凄まじいものであったということになっていたが、この日記が発見されたことにより、慧海は国境の峠を越えてチベット側に下りるまでヤクを使い続けたと見られると、訂正することになった。

河口慧海日記(奥山直司編)より引用して抜粋(1900年7月1日)

 

褶曲した岩山が印象的な道を進む


かつて慧海がヤクを使って越えた道――、シェー・ゴンパからやや南東へセプチュ・コーラ沿いに進む。ちょうど紅葉の季節と重なり、沢沿いはわずかな木々の葉が紅葉して美しかった。ドルポは森林限界で、木が少ないので、期待していなかったが、今回初めて紅葉があることを知った。

谷の合間にはよく見ると、丸く石が積み重なっており、ケルンのようなものが見えた。「シェー山は聖地なので聖域の境目で、あそこは入り口だ」と言う。それで、外から帰ってきたら、必ずそこでお祈りするそうだ。

セラ・ラ(峠)でチベット国境ラインの山々を望む


シェー山は、一般的に住居はなくお寺を守ってる人だけが住んでいるという。確かにそうだった。シェー山から遠くない場所で家のような建造物を見かけたが、それは家畜の世話をするためのカルカだった。

真南に印象的な褶曲した岩山がクッキリと見えてきた。2012年に通った時も強い印象を受けたのでよく覚えている景色だが、今回は雪が少しついていて岩山の形が際立っていた。その山が遠くに見えるところから、道は分岐になっており、そのまま南東へ行くとドゥータラップへとつながる峠、セラムクチュンにつながる。

今回は、国境を目指すので北へ、セラ・ラ(峠)へとつながる道へ進む。一度下りきってから、また登り返し、セラ・ラ峠に着くと、遠くにチベット国境の山々が見えるてきた。ルンチュンカン、イェメルンカン、ギャンゾンカンが確認できた。それらを見ながら、だだっ広いところを緩やかに降りていき、斜面の横断が続く。そして、次の目的地は、ナムグンへ。

渓谷の下に見えるナムグン・ゴンパ、その上の崖にへばりつくようにある古寺を目指す


ここは2012年に来た時に一泊したことがある場所で、その時は時間があったので周囲を散策した。そこにはナムグン・ゴンパがあり(このゴンパは渓谷の下にあるのだが)、さらに斜め上の崖にへばりつくように古寺もある。それは廃寺なのだが、ぜひ見ておきたかった。道はもう消えていたが、滑りやすい斜面をなんとか登ってその寺に中に入ってみると、仏画の壁画が少し残っており見応えがあった。

渓谷では下草の紅葉が美しかった


今回は慧海ルート探索が目的なので、慧海と同じようにナムグンには寄らず、そのままサルダンを目指した。ナムグン・コーラの沢沿いを行かずに山肌を登りつめる。対岸の山々は下草が紅葉して美しかった。サルダンの村の手前にケルンがある。村の入り口には、必ず仏塔やケルンなど目印になるものがあるので、長距離を歩いていると、ケルンが見えるとホッとする。

道程ではパチュンハム(6529m)など私が目印としていた山々も確認出来た


そこからはまたセラ・ラ(峠)と同じく国境の山々が見え、さらにサルダン村が真下に広がり、セラ・ラ(峠)からは見えなかったパチュンハム(6529m)などが見えて、私が目印としていた山々も確認出来た。

さらにどんどん進んでいくと、先に歩いていたガイドのアガムさんと今回の遠征パートナーの伴ちゃんが、歩くのが遅い私を待っていてくれた。休憩場所では真下に村が大きく見えた。ちょうど収穫時期が近づいていたので、大麦畑と蕎麦畑の茶色とピンクの色彩と、そこで農作業に励む村人達の姿が美しかった。

大麦畑と蕎麦畑の茶色とピンクの色彩が印象的だった
 

農作業に励む村人たち


私が歩いた時は天気がよかったが、慧海日記の記述にあるように風雨が激しい状況なら、相当厳しかっただろう。慧海が10時間かかった区間を、私は9時間で歩けたので、初めて慧海より速い結果となったが、天候条件によると思われる。

 

9/25 サルダン~ニサル (3845m)

明治33年7月2日
疲労保養の為と焼麦粉製造の為に逗留

河口慧海日記(奥山直司編)より(1900年7月2日)


ニサルへ向けて出発する前に、ドゥンドップラマの家で少し食糧を分けてもらうことができた。私はドルポ遠征の際、食糧の現地調達をしなくてもいいように持ち込むようにしている。現地の人々は自給自足の生活で、収穫量によっては彼らが越冬するための食糧にも差があるからだ。しかし、今年の遠征では所々で「分けてもよい」という人に出会うことができて助かった。

前回(2012年)は売ってもらえることはほとんどなく、少なくなった食料を気にしながら畑の中を歩いていた時、「ジャガイモなら分けてあげるよ」と冬は外部から遮断されるドルポの人から言われて、その優しさが身にしみた。それはそうだ。長い冬が近づく時期に、旅人に売る余分な食糧などなかったのだ。

しかし、今回(2016年)は多くはないもののトレッカーの姿もちらほら見かけた。そして、「旅人に食糧を分けてもいい」という村人に、ところどころ出会った。私が2007年に初めてこの地域に来た時は、トレッカーは皆無だったので、ドルポも変わりつつある。

今日の行程では、まず映画「キャラバン」に出てくる人物、ティンレの家を探した。村人に聞き、サルダン村の中でも高い所へ登っていく道を見つけた。ティンレ自身は、2016年4月にチェプカ村付近で落馬して亡くなったそうだ。74歳だった。その家を探し当てると、長男の奥さんがいて、家の中に入れてくれて、話を聞かせてもらえた。

家族の方が、亡くなったティンレさんの写真を見せてくれた


ティンレ一家は冬はヤクを連れてロワードルポの村まで降りる、本物のキャラバン生活をしていた。あの映画の世界がまだ健在だった。さすが、ティンレの家系だ。ティンレの家からまたさらに登っていくと、サルダン村の眺めがよく、大麦と蕎麦の畑が太陽の光で黄金に輝いているかのように見えた。

大麦と蕎麦の畑が太陽の光で黄金に輝いているかのように見えた


そこからナムグン・コーラの左岸の道を下流に向かって進む。私は褶曲山脈に魅せられて、メンバーから遅れることしばしば。そこを抜けると大きな河原があり、そこでランチタイムとなったところで他のメンバーと合流できた。

さらに、ひたすら沢沿いを進んでいくと、左岸の上の方に仏塔や村が見えてきた。どんどん進んでいくと、仏塔の門のようなものが目に入ってきた。カンニというそうで、そこは中を通れるようになっている。そこを通り抜けて進むと、どこかで道を間違えたのだろうか・・・、道を失ってしまった。上部の山の斜面の方に良さそうな道が見えたので、そこまで強引に上がっていき、斜面を横切るルートを進んだ。

そこからはナムグン・コーラの展望がよく、遠くに仏塔が見えて、ナムグン・コーラとパンザン・コーラ(慧海はテンギュ河と記載)の合流点のタロ・スムドに到着した。そこでガイドのアガムさんが休憩しながら待っていてくれた。

そして、チベット旅行記には出てこないが、その後に発見された河口慧海日記に記載がある「危険ならざる橋」の橋を渡った。ここには、今ではもう1つ鉄アングルでできた立派な橋もできていた。橋を北にわたり、北岸の上流に向かっていく。

ナムグン・コーラとパンザン・コーラ(慧海はテンギュ河と記載)の合流点のタロ・スムド

河口慧海日記に記載がある「危険ならざる橋」の橋を渡る


途中で鍋を売りに来ている人たちと出会った。話を聞いたら、カトマンズ近郊からだ、しかもシンドゥパルチョーク、2015年のネパール大地震の被害が大きかったところだ。家が全壊して仕事がないと言っていた。

ここはドルポの中でも一番の奥地、私は彼らが行商のためにはるばるここまで来ていることにびっくりした。ネパール人はどこまでもハングリーだ。私はそんなネパールが好きで通っているのだが、彼らの生きる力、そしてエネルギーはケタ外れである。

*     *     *

話を戻して、ここから河口慧海日記とリアルに比べてい。

明治33年7月3日
朝7時に出立して、東北に流れ下る大渓流に添ふて、下り行くこと三里余にして、この流れはテンギュ東南より下れる大渓流に入る。少しく前に橋あり。東に渡りてテンギュ河の南岸を東に行くこと三丁余にして、テンギュ河を北に渡るやや危険ならざる橋にあり。幅四尺、長さ八間。木を似て製して岩と岩との端に懸かれり。

渡りて北岸を東に上ること弱一里にして、河水にて焼麦粉を食ひ了て、同方向に上り行く。半里にして大寺あり。稍や荘厳、ヤムデル(ヤンツェル・ゴンパ)と伝ふ。それより上りて下ること半里余にして、北方少しく東より下れる急流に添ふて、北少しく東に上ること五里――、(省略)

河口慧海日記(奥山直司編)より(1900年7月3日)


慧海は、『危険ならざる橋』から「弱1里」進んだところで、河水にツァンパを溶かして食べ、東へ登る。そこから「半里」進み、ヤンツェル・ゴンパを見て荘厳」としている。

ゴンパには九連の仏塔があり、そのような建築はドルポでも珍しく、遠目から見ても大きな寺であることは想像は出来る。慧海日記の記述では、橋からゴンパまでの距離は「弱一里」と「半里」とすると約5km。しかし、実際は橋からゴンパまでは地図上ではわずか約3kmだ。

もちろん、慧海がどの地点でゴンパを見たかによって、距離は変動する。慧海日記の「それより上りて下ること」の「それ」がゴンパを示すのか、あるいはゴンパを見た場所を示すのか。私の考えでは、越境を控え最も重要な行程の場所で村人との接触を避けたかったから、慧海は、ゴンパには立ち寄っていないと思っている。

慧海が「荘厳」と記しているヤンツェル・ゴンパを望む


道は、ゴンパに向かう登り道と、そこから分かれて沢沿いや畑の中へと続く道のいくつかに分岐する。現在は、ゴンパの東側にはニサル村がある。

当時もその村が存在したかは不明だが、慧海がその村をを避けて下る道を東に行くと、クンコーラの手前にあるパンザンコーラとの支流に合流する。その沢は、ニサル村の村人が水汲みに利用する沢ということなので、おそらく慧海の時代にもこの道はあったのではないかと考えられる。その沢から登っていくと、上の道と合流する。

道はゴンパに向かう登り道と、沢沿いや畑の中へと続く道のいくつかに分岐する


さらに、その道をどんどん登ると、現在は大きなケルンにたどり着く。ここまでの道が、慧海の示す「上りて」なのではないだろうか。時間的にも、「半里余り」なので、40分弱で歩けるだろう(前回にも記述したが、慧海は一里を時間で換算した記述をしている。一里は、約60分)。このケルンのある場所からは、ニサル村や、ヤンツェル・ゴンパが遠くに見える。道はここから、クンコーラへの下りとなり、これが「下りて」となるのではないかと、私は思うのである。

(写真左)慧海の示す「上りて」と思われるケルンから見たニサル方面。ヤンツェルゴンパが遠くに見える
(写真右)慧海の示す「下りて」と思われる、クンコーラへと下る道


「慧海日記」に戻ろう。日記には「北方少しく東より下れる急流に添ふて、北少しく東に上ること五里」とある。これこそが、ケルンから下って谷に入り、そこから登っていくクン・コーラ沿岸の道と一致するというのが私の推論だ。パンザン・コーラから袂を分かつ二つの渓流はクン・コーラとムシ・コーラである。だが、ムシ・コーラはクン・コーラより2km東に位置するため、さらに遠くなる。

ちなみに、私は2019年ドルポ越冬中に、慧海ルートの核心部の越境峠となる調査でマゲン・ラ(峠)の1.5km手前までルートを確認しに行った。パンザンコーラの一部はゴルジュになっていて、5万分の1の地図にはトレイルが描かれているものの厳冬期以外は通れないという話を聞いた。

言われてる通り、厳冬期のパンザン・コーラは氷結していて、最近も死亡事故があり危険だという話を耳にした。そして、実際に私が訪れたときも、ヤンツェル・ゴンパからムシ・コーラまでは慧海日記の記載通りの時間ではたどり着けない。

さらにムシ・コーラを北上すると、そこにはモェ村がある。慧海は密入国で移動していて、日本人ということを隠しているのに、わざわざ村がある谷を選ぶことは考えにくい。このことから考えても、クン・コーラを北上したと思われる。

この日、私は慧海と違う行程になるが、ニサルで一泊した。

(写真左)ヤンツェル・ゴンパから歩いてきた道を振り返って見るパンザンコーラ。ナムグン・コーラの出合からヤンツェル・ゴンパまでは3丁と1里弱と半里
(写真右)冬のパンザンコーラは、完全凍結してるところと、このように一部凍結している。夏になると川の水は増水することを考えると、ここは通れないと想像する
 

パンザン・コーラとムシ・コーラの出合。ここから東へはもっと深いゴルジュになっていく
 

ヤンツェル・ゴンパの様子


この「慧海が越境した峠はどこか?」という大きなテーマについては、研究者の方々が長年研究されてきた。私は雑誌や新聞、本などからそれに触れ、個人的にワクワクしながら楽しんでいた。

しかし2007年その研究者の一人である、故・大西保氏と出会い、遠征隊に入れて頂いたことで、いつの間にか自分のテーマになってきた。そして、奥山先生はじめ何名かの協力を得て「新・河口慧海研究プロジェクト」を立ち上げることになった。

私は研究者の方々のそれぞれの熱い情熱をリスペクトしていて、それを出来るだけ次の世代に伝えたいと思っている。これは、とても恐れ多いことなのだが、今私がやらなければ、この先人の方々がやってきたことが消えてしまうかもしれないのだ。

ほんの少し生きる時代が重なったことで、ドルポが縁となり出会うことができて、私は研究者の方々の情熱をリアルに感じ取れた。私の一番の師匠、故・大西保氏、故・高山龍三氏が他界した今、聞きたくてももう聞けない。故人たちが今までやってこられたフィールドワークの凄さを、現場に行けば行くほど、調べれば調べるほど、その凄さを痛感している。

しかし、研究者の先人たちがさまざまな記録を残してくれてはいるものの、全てが記録に網羅されているわけではない。私自身が、大西さんや高山先生とのたわいのない会話の中で耳にしただけのエピソードも数多くある。それらを聴くのが私にとってとても楽しいひと時だった。

今回はサルダン(SALDANG)からヤンツェルゴンパ(Yangjer Gumpa)を通り、ニサル(Nisalgaon)へと、歩みを進めてきた


研究者の方々が年齢を重ねていかれ、一番身近な師匠であった大西さんを亡くしたとき、「残された時間は、もう、長くない」と気づかされた。今のうちに、できる限り詳しく聞き、慧海ルートを明らかにしたい。人生の中で、慧海ルートに関わってこられた皆さんのご意見を聞きたい。それをもとに、自分自身の足で現場を歩き、確かめたい。これが、私の率直な願いだ。

正直に言おう。慧海がチベットに入るとき、越えた峠はどこか? その答えは、ひとつではなくても良いのではないだろうか。120年前のことは、やはり謎だろう。いつの日か、天国で慧海さんに会って、尋ねてみたい。そんなロマンがあっても、面白い。

何より、私より若いこれからの世代の人たちに、120年前にこんな日本人、河口慧海さんがいて、こんなことをひとりで成し遂げていたということをもっと知ってほしい。そのために私のドルポ通いを続けることが、ドルポと、そして慧海さんに運命的に出逢えた私の使命だと思っている。

2019年11月からのドルポ越冬を終えて帰国した2020年春、世界中がコロナ禍のただなかにあった。外国に行くなんて口にも出せないような時期に、自分のいままでの歩みと、慧海ルートを見つめ直す時間ができた。そして、「新・河口慧海研究プロジェクト」として再結成し、活動を始めた。

2023年4月現在も、私は大阪の千早赤阪村に友人たちの協力をえてDIY で作り上げた、まるでDolpoにいるかのような小屋で、何枚も広げた書き込みだらけの地図を前にして、何時間も「慧海の核心部」に想いを巡らせている。

 

プロフィール

稲葉 香(いなば かおり)

登山家、写真家。ネパール・ヒマラヤなど広く踏査、登山、撮影をしている。特に河口慧海の歩いた道の調査はワイフワークとなっている。
大阪千早赤阪村にドルポBCを設営し、山岳図書を集積している。ヒマラヤ関連のイベントを開催するなど、その活動は多岐に渡る。
ドルポ越冬122日間の記録などが評価され、2020年植村直己冒険賞を受賞。その記録を記した著書『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く;ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』(彩流社)がある。

オフィシャルサイト「未知踏進」

大昔にヒマラヤを越えた僧侶、河口慧海の足跡をたどる

2020年に第25回植村直己冒険賞を受賞した稲葉香さん。河口慧海の足跡ルートをたどるために2007年にネパール登山隊に参加して以来、幾度となくネパールの地を訪れた。本連載では、2016年に行った遠征を綴っている。

編集部おすすめ記事