トレッキングポールの持ち主はどこへ? なんでもない普通の登山道で事故は起こった
登山コースの荒廃と危険性
なぜ滑落事故が起こったのか。死亡したSさんの話は聞けないので原因究明は難しいが、名倉さんは次のように語る。
「現場は急斜面のつづら折れで、枯れ葉が積もり滑りやすい場所です。滑り落ちただけなら体の抵抗で止まると思うのですが、残念ながらなにかの原因でゴロンゴロンと回転しながら転がったと思います。本人は25年の登山経験があり、75歳という年齢からも無理はしないと思いますが・・・」(名倉さん)
ポールを拾った増田さんも、ウソッコ沢小屋から横窪沢小屋の間はこのコース中最も急傾斜で、下山してきた場合は脚の負担が蓄積して大きくなると指摘している。
Sさんの75歳という年齢、前日までの登山行程による疲労の蓄積、体力と精神力(集中力)のバランスなど、複数の要因が関連して自覚しにくいリスクが高まっていたところで、なんらかのきっかけで(滑る、つまずく、引っ掛ける、など)転倒してしまったのだろう。直後、滑落を止めるリカバリー態勢をうまくとれないまま、谷底まで落下したと推定される。
単独登山者の死亡事故の場合、遭難原因についてはほとんど推定になってしまう。本事例からの教訓として、特に難所といえない一般的な登山道でも滑落事故が発生し、条件によっては死亡することもあり得ることをよく認識しておきたい。このような一般登山道での重大事故多発ということが、現代の山岳遭難の特徴の一つと考えられる。なぜそうなのか。現地の事情に精通している名倉さんの言葉はとても参考になる。
「茶臼の登山道は、南アルプスの中では駐車場から登山口まで近くアプローチも簡単で、昔は入門コースだといわれてきました、しかしながらこの登山道は、ウソッコ沢、横窪沢、上河内沢と三つの沢の急斜面を通過するトラバース道であり、年々崩壊が進んでおり非常に危険な状況です。今期も滑落事故が多発しており私が把握しているだけでも5件、それ以上かもしれません、南アルプスでも上級者コースになってきました。吊橋も4つあり踏板も腐敗がひどく、また鉄の梯子も所々にあり、落石による破壊も多々ありますし、横窪沢の丸太橋も朽ち果て川に浸かっている状態です。早急な整備が必要と思います。今年も静岡市山岳連盟で踏板の修理をしたり、危険なトラバース道への補助ロープ設置を実施してきましたが間に合いません。行政も気にかけてくれてはいますが、膨大な費用と多数箇所への修理が必要で、このままでは現在の登山道は使えなくなってしまうかと危惧しています」(名倉さん)
荒廃したコースの実質的難易度が上がる一方で、登山者は高齢化しておりリスクは高まるはずである。しかし、高齢にもかかわらず元気な登山者が多い。Sさんは入山2日目に椹島から聖岳に登っているが、この日の合計コースタイムは11時間40分(ヤマタイムによる)にもなる。
名倉さんは、最近のツアー登山についても心配なことがあるという。
「茶臼小屋は光岳、聖岳を登るためのベース小屋として利用してもらっています。光小屋は人気があり定員15名で予約が取りにくい小屋です。個人山行なら予約は取れるのですが、ツアーで10名、20名となると予約は無理です。そこで茶臼小屋を拠点として光岳をピストンするツアーです。往復16km、所要12~14時間、これを平均年齢60~70代のかたを募集して行なっています。これまで遅くなったこと以外問題になったことはありませんが、あまりにも遅くなると小屋番の心労が重なります。いかんせん長いですし、異常事態が発生したらどうするかと。今後もこのツアーは続くと思いますが、慎重に実施してもらいたいと思います」(名倉さん)
ヤマタイムによると茶臼小屋から光岳までの往復は10時間35分だが、光石やイザルヶ岳を往復するとプラス1時間になる。たしかに登山ツアーの行程としては相当に長い。個人でもツアーでも、長距離を短時間で駆け抜けるような歩き方が多く行なわれていると思える。トレイルランニング流行などの影響があるのだろう。これらの傾向が遭難増加につながっているとは断定できないが、結果的に(登山人口が減少している一方で)山岳遭難は増え続けていることは事実である。できるだけリスクを少なくするような登山方法を追求するべきだろう。
「TJARの影響か、このごろ皆さんの歩くのが速くなってきたように思います。もっとゆっくりと自然を楽しみながら登山を楽しんだら、と思います。小屋着は午後3時までにお願いします!」(名倉さん)
遭難発生はもちろん遭難未遂の事例であっても、山小屋を守る人たち、地元登山関係の人たちに多大な影響を及ぼすことになってしまう。彼らの声に耳を傾けながら、個々の登山者が遭難防止できる登山方法を考えていきたい。
この記事に登場する山
プロフィール
野村仁(のむら・ひとし)
山岳ライター。1954年秋田県生まれ。雑誌『山と溪谷』で「アクシデント」のページを毎号担当。また、丹沢、奥多摩などの人気登山エリアの遭難発生地点をマップに落とし込んだ企画を手がけるなど、山岳遭難の定点観測を続けている。
山岳遭難ファイル
多発傾向が続く山岳遭難。全国の山で起きる事故をモニターし、さまざまな事例から予防・リスク回避について考えます。
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