不安な心をしずめる花の力――どんなときも、私たちは花を愛することができる

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社会活動も生活も大きく制限せざるを得ない今、身近に咲く花の美しさに心癒されることはないでしょうか。ベストセラー『生き物の死にざま』の著者であり、植物学者の稲垣栄洋さんが、身近な花の生きざまを紹介する連載。美しい姿の裏に隠された、花々のたくましい生きざまに勇気づけられます。

サクラ、サンシュユ、ハナモモ/はにわさんの登山記録より

 私たちはどうして花を愛でるのでしょうか。
 どうして花を育てるのでしょうか。そして、どうして花を飾るのでしょうか。

 私たちが野菜を育てるのは、それを食べるためです。私たちが米を買うのは、それを食べるためです。しかし、花を食べるわけではありません。食べるわけでもないのに、花を育てたり、買ったりするのです。

 私たちは、鮮やかに色づいた果物に惹かれます。
 イヌやネコなどの哺乳類の多くは、緑色と黄色、赤色の識別をすることができません。恐竜の時代、哺乳類は恐竜の目を避けるように夜行性の生物として進化をしたために、色を見分ける能力を失ってしまったのです。
ところが、私たちの祖先であるサルは、緑色の葉っぱの中から、赤色や黄色に熟した果実を選び出す能力を獲得しました。私たちがきれいに彩られた料理を見て、おいしそうと感じるのは、それが生きるために必要な能力だからです。
 しかし、私たちがきれいな花を見ても、お腹が満たされるわけではありません。花を美しいと感じる能力は、生きる上で必要ないもののように思えます。

 一方、植物の立場に立ってみるとどうでしょう。
 植物の果実が赤や黄色に色づくのは、鳥たちにその存在を知らせるためです。鳥は色を識別することができます。そこで、植物は果実を赤色や黄色で目立たせて、果実を食べさせます。そして、果実といっしょに食べた種子が糞といっしょに外に排出されることで、植物の種子は移動するのです。果実の色は、鳥たちへの合図なのです。

 それでは、植物の花が色鮮やかなのは、どうしてでしょう。
 残念ながら、植物が美しく咲くのは、人間のためではありません。
 植物は、美しく花を色づかせて虫を呼び寄せます。そして、呼び寄せた虫に花粉を運ばせて、受粉をするのです。たとえば、遠くから見える赤色や橙色の花は、遠くから飛んでくるアゲハチョウを呼び寄せます。紫外線を含む紫色の花は、ミツバチが好む色です。また、黄色い色を好むのはアブの仲間です。
 このように、花粉を運ぶ虫の種類がさまざまなので、花もさまざまな色で咲き誇るのです。

 花が美しく咲くのは、人間のためではありません。人間が花を好むのはまったくの片思いなのです。一方、人間にしてみても、花は生きていく上で不可欠なものではありません。
 それなのに、人々は花を愛してきました。そして、野生の花々に改良を加えて、さらに美しい花の世界を創り上げてきたのです。
 自然界を生きていく上で、人が花を愛することは、花にとっても、人にとっても、まったく意味のないことです。
 それでも人は花を愛します。花を美しいと感じます。花に癒やされたり、花に力づけられたりします。そのことに、本当に意味はないのでしょうか。

「何の役にも立たないのに、それでも花を愛する」、それが人間という生物です。花を愛することこそが、他の生き物と大きく違う、人間らしいことなのです。
 花は、人間のために咲くわけではありませんが、私たちはそんな花を見て、生命力を感じ、生きる力をもらってきました。春に先駆けて咲くフクジュソウはめでたい花とされています。春の到来をつげるサクラの開花を人々は、毎日待ちわびます。2011年の東日本大震災で、打ちのめされた人々の心に希望を灯したのは、津波に流されながら花を咲かせたカーネーションであり、人々が育てたヒマワリの花でした。

フクジュソウ/yamaocchanさんの登山記録より

 人間は「花を愛することができる」能力を持っています。この能力によって、私たちは、ただ「生きる」ことではなく、「豊かに生きる」ことを手に入れました。そして、「強く生きる」ことを手に入れたのです。

 もし今、世の中が不安に満ちているとするならば、今こそ、私たちは花を愛する力を思い出すときかも知れません。私たち人間は花を育て、花に育てられてきました。人間と花とは、そうやって幾たびもの困難を乗り越えて、歴史を紡いできたのです。

 次回から、花の生きざまを1つずつ取り上げ、紹介していきます。

(植物学者、静岡大学教授 稲垣栄洋)

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チューリップ、クロッカス、バラ、マーガレット、カンパニュラ、パンジー、マリーゴールド――花は、それぞれ輝ける場所で咲いている。身近な47の花のドラマチックな生きざまを、美しいイラストとともに紹介。
昆虫や鳥を呼び寄せ、厳しい環境に適応するために咲く花。人間の生活を豊かにし、ときに歴史を大きく動かしてきた花。それぞれの花が知恵と工夫で生き抜く姿を、愛あふれるまなざしで語る植物エッセイ。『身近な花の知られざる生態』(2015年、PHPエディターズ・グループ)を改題、加筆のうえ文庫化。


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著者:稲垣栄洋
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【著者略歴】
稲垣栄洋(いながき・ひでひろ)
1968年生まれ。静岡大学大学院農学研究科教授。農学博士、植物学者。農林水産省、静岡県農林技術研究所を経て、現職。著書に『身近な雑草の愉快な生き方』(ちくま文庫)、『散歩が楽しくなる雑草手帳』(東京書籍)、『面白くて眠れなくなる植物学』(PHPエディターズ・グループ)、『生き物の死にざま』(草思社)など多数。

プロフィール

稲垣栄洋

1968年生まれ。静岡大学大学院農学研究科教授。農学博士、植物学者。農林水産省、静岡県農林技術研究所を経て、現職。著書に『身近な雑草の愉快な生き方』(ちくま文庫)、『散歩が楽しくなる雑草手帳』(東京書籍)、『面白くて眠れなくなる植物学』(PHPエディターズ・グループ)、『生き物の死にざま』(草思社)など多数。

身近な花の物語、知恵と工夫で生き抜く姿

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